伯母の話 前編 その1

部屋を眺めていると、床の間には丸窓があり襖の上には欄間もある本格的な和室の造りになっていることにあらためて気づく。茶会をやってもさまになりそうに見える。今はがらんとしているこの古びた部屋にはかつて足の踏み場もないくらい衣類や書類や空箱が散らばっていた。そして襖の向こうには伯母が50年以上を過ごした書斎兼寝室があった。万年床のまわりに書類や文具が散乱していたことを思い出す。歳をとってからは病院でもらった薬を入れた白いビニール袋がその仲間に加わっていた。高齢になったから片付けられなくなったわけではない。ずっと昔から散らかっていたのだ。

二階にあるこの六畳と四畳半の二間が伯母の生活空間のすべてだった。といっても床の間がある部屋は物置きとしてしか使っていなかったので実際には伯母は四畳半で生活をしていた。廊下には書類がうず高く積まれ、この部屋の引き戸の左側からは廊下に出られなかった。この廊下の突き当りには大きな白い衣装ケースがあったが、山のような書類を取り除かない限りそこには到達はできず、ケースに何が入っているのかは長年の謎だった。今はそれもすべて片付けられ、伯母が使っていた開閉式のライティングデスクだけが置かれている。


母が倒れたと父から電話があったのは昼前だった。朝食中に父の目の前で倒れたらしい。実家に向かう新幹線の中で再びかかってきた電話で父は「もうあかんかもしれへん」と言った。心臓血管センターと名前のついた病院に着いたのは夕方、手術の順番待ちをしている時だった。白衣を着た執刀医は大動脈解離だと言った。「この歳だと普通はまわりがあきらめるんだが、よくここまでもたせたものだと思う。人工心肺二つもつけて」。医者は年寄りの血管のもろさを豆腐に糸をかけるというたとえで説明したあとこう付け加えた「しかし僕はこの手術には自信がある。直す自信があります」。それは医者が自分自身に言い聞かせている言葉のようにも思えた。「ただし緊急手術なので感染症のリスクを下げる処置をする時間がない。これだけはやってみないとわからない」

手術は短くて四時間、長ければエンドレスとのことだった。続いて到着した弟と病院での待機を分担することにして、ひとまず父と自分は実家に帰った。伯母に母の入院の話をすると動揺している様子が伝わってきた。母に何かあると伯母は困るのだ。深夜に病院に行き弟と交替したときにはまだ手術中だった。しばらくすると執刀医がやってきて手術は無事終わったと言った。白衣には血の痕があった。「順調であれば明日の朝に目が覚めます。ただ感染症の影響があったらそれが遅れることになる。もし24時間目覚めなかったら……、その時は別の方法を考えなくてはいけない。もう今の時点でこの人の運命は決まっています」

母は実家で最初に死んではいけない人だった。死ぬのには正しい順序というものがある。伯母、父、母があるべき順番だ。伯母や父は仕事はできても家事はやってこなかった人たちだった。専業主婦の母は毎日三人分の食事を三食作っていた。家のどこに何があるかは母だけが知っていた。母には近所に数十年来の親しい知り合いがいくらでもいる。一人でもこの家で生きていける。しかし伯母と父はそうはいかない。母が死ぬと誰かが埋めなければならい不連続がおきる。そしてもうひとつの問題は土地だった。実家の土地は祖父の遺言で伯母と父の共有になっていた。伯母は自分の遺産を父に渡す約束をしていたが父が先に死ぬとその約束が反故になって遺産分割でもめる可能性があった。母が実家に住めなくなるような事態だけは起こってはならなかった。


伯母は女学校を卒業したあと大手の広告代理店に就職してそこを定年まで勤めあげた。管理職にもなった。当時の女性としてはおそらく珍しかったはずだ。床の間にあった機械式の卓上時計は永年勤続表彰の記念品だった。業界大手の製薬会社の宣伝を担当していた時期があり、薬の名前の入った鉛筆やメモ帳といった販促グッズを持っていた。仕事柄モデルやタレントには詳しく、「あの女優さんは見かけと違って実は…」という話をよく聞いた。「手タレ」という言葉は伯母から教えてもらった。伯母は変わった原稿用紙をもっており、それは横長で下半分だけにマス目があり上半分は絵コンテを描くために真白になっていた。原稿用紙に書かれた文字は達筆すぎて子供のころの自分には判読することができなかった。

伯母は定年後に友人と小さな会社を作り何年かそこに通っていた。退職した会社の下請け仕事をしていたらしい。しかし震災に遭い事務所が被害を受けたことをきっかけにその会社もたたんだ。その後は地元のシルバー人材センターに通い、現役時代の経験を生かして会誌の編集などの仕事をするようになった。この期間は長く、センターでの十五年間の活動を慰労する感謝状が残っている。廊下を占有している書類の山の中には会誌をはじめセンターでの仕事に関するものがかなりの量を占めていた。仕事が生き甲斐の人だったのだ。


翌朝病院に行くとちょうど母が目覚めたところだった。体にはたくさん管がついていた。僕を見ると「ここはどこや。天井が白い。倒れたんか?」と言った。「そうや。でももう大丈夫や」。本人は何も覚えていないらしい。次に病室に行ったときにはもう管はほとんど取れていた。食事をとれるようになると「箸が重たいなあ」と言った。歳をとると体を動かさないと筋力がすぐ落ちる。口はいつものように達者で「塩味が薄くてまずい」などと不満を言うようになっていた。母は父にタオルや日用品など入院生活に必要なものを、家のこの箪笥のこの引き出しからもってくるようにと頼んでいた。

一刻を争うこの病気で母がここまで回復できたのは奇跡のように思えた。母は父の目の前で倒れたので父はすぐ救急車を呼ぶことができた。父は救急車に心臓血管センターに行ってくれと指示したらしい。なぜ倒れたのかこの時点ではわからないはずなのに。父はしばらく前に母が胸が痛いと言ってこの病院で診察を受けたことを思い出したのだった。執刀医が普通はあきらめると言った救急救命士は「絶対助けたる」と叫んでいたと父は言った。母のかかりつけの医者に連絡がいき、この医者は病院にかけつけ執刀医と話をしていたとあとになって聞いた。

母が入院して数日間僕は実家にいた。ある晩伯母が二階からおりてきて「保険証がみつからへん」と言った。一緒に二階にあがると部屋にものが散乱しているのは相変わらずだった。足の踏み場がない。ほどなく保険証は見つかって伯母に渡すと「ああよかった」。それから一時間ほどするとまた伯母が二階からおりてきて「保険証がみつからへん」。「さっき渡したやんか。どこに直したんや」。また二階にあがって捜索すると今度は伯母のバッグの中にあった。「ここに入れてるやんか。ここやで。覚えときや」。そしてさらに一時間後また下におりてきて言った「保険証がみつからへん」。ここにいたって状況の深刻さを初めて認識した。もう一度二階にあがってバッグの中の保険証を伯母に見せて「安心し。保健証の場所は僕が知ってるから心配せんでええ。今日はもう寝えな」。伯母が再びおりてくることはなかった。


父方の祖父には子供が六人おり伯母はその三番目で父は五番目だった。伯母の上には長女と長男がいた。祖母は早くに亡くなったので僕は会ったことがない。祖父が今の家を買うためにそれまで住んでいた家を売ったときには、六人のうち五人はすでに家を出ており伯母だけが残っていた。それで祖父と伯母がこの家に最初に入った。事情があって三男であった父が祖父の面倒をみることになっていたので、当時公営住宅に住んでいた両親と弟と僕があとから合流して六人家族となった。ここは父の知り合いが紹介してくれた家で、祖父が買ったときには平屋だったが伯母の部屋を作るために二階を建て増ししたという。父にしてみればこの家に伯母がいることは想定外だったのだ。このとき僕は四才だった。

伯母はその後もずっと独身だった。男の話は一度も聞いたことがない。この家から出たこともなかった。伯母の姉は「あの子は選り好みばっかりしてるから嫁き遅れてしもて」と言っていた。まわりは伯母は独身だからお金を持ってると言っていた。確かに気前はよかった。お年玉もいっぱいくれるし何でも買ってくれるので子供にとってはいい人だった。伯母は料理をしなかった。毎月いくらかのお金を母に渡し食事は母が作ることになっていた。伯母は生活リズムが夜型ということもあり、皆と食卓を囲むことは少なく、母の作り置きを一人で食べることが多かった。食べることは好きでどこの店はうまいあそこの店はまずいという話をよくしていた。でもこれは自分で食べた感想というより店の評判のことを言っているようにも聞こえた。


母は三週間入院して戻ってきた。僕が再び実家に行ったときには、父は医者から何か言われていたのか母の家事をよく手伝っていた。母にあまり動いてほしくなさそうだった。僕は父に家政婦を頼んでみることを提案し、一緒に電話帳で家政婦紹介所を探して週一回掃除や片付けなどをしてもらうことにした。この頃から僕が実家にいるときには僕が食事を作るようになった。季節柄評判がよかったのが鍋物だった。鍋に水とだし昆布と葉物野菜、豆腐、きのこ、鶏肉を入れて火にかけるだけなので父でもできる。味付けは各自が取り分けてからポン酢をかけるので、塩分を控えるように言われている母と濃い味が好きな父とが両立する。汁物を別に作る必要がなく具材を変えれば続けてもあきることがない。だしの正しい取り方は我が家では誰も気にしない。そのかわりポン酢だけは値段が高くてもおいしいものを買わせた。

母が病院から持って帰ってきた分厚い書類の中に入院費の請求書があった。そこには保険分合計点数が66万点とあった。医療費が660万円かかったということだ。点数の内訳が書かれた診療明細は13ページもあった。母は1割負担なので自己負担額は66万円だが、高額医療費療養制度のおかげで実際の支払額は驚くほど少ない。保険対象外の差額ベッド代の方がよほど高額だった。結局両親が加入する民間の医療保険の給付金でほとんどまかなえてしまった。掛け金の金額を考えると死亡保険はともかく民間の医療保険に意味があるのかはななだ疑問だった。日本の医療保険制度の手厚さを実感したが、このような制度がはたして今後も継続しうるのだろうかとも思った。

少し落ち着いたところで僕は母に言った「お姉さんボケてるで。何でああなるまでほっといたんや」。母はそうは思っていないようだった「そうか?そんなことないと思うけどなあ。認知症とはちゃうやろ」。僕が食い下がると「お姉さんとそんなに話すことないしなあ」。確かに伯母は普段ずっと二階にいるので最近は何か用事でもない限り話をすることはあまりない。少し世間話をする程度ではこれまでと変わりがないように思える。保険証の一件以来同じようなことはおきていない。あの時は突然母がいなくなったことで伯母が一時的に不安定になったのかもしれない。


祖父がいた間は正月や盆になると父の兄弟たちが子供連れでやってきて実家はとても賑わった。多い時には十人近く来て、なかには泊まる人もいるので出迎える母は大変だった。この時ばかりは伯母も準備を手伝っていた。畳の部屋を二間ぶちぬきにしてテーブルをいくつか並べ、全員が祖父を囲んで座れるようにした。準備が大変なのは誰の目にも明らかだったのである時から持ち寄りになり、それでだいぶ楽になったと母が言っていた。この集まりは弟や僕にとっていとこたちと遊ぶ貴重な機会だった。僕が小学校高学年の時、自分には解けない難しい算数の問題を大学生のいとこに見せたところ、いとも簡単に解かれてしまいえらく驚いた記憶がある。大学生が小学生の問題を解いたのだからあたりまえだが、その時は大学生とは偉いんだと思った。

この集まりに一度も来たことのない親戚が一人いた。それは祖父の長男だった。僕はこの長男にもその二人の子供にも会ったことがない。祖父と長男には確執があり絶縁状態だという。親戚は誰もこの話をしたがらなかった。僕が聞く話はいつも母からだった。母によれば長男から祖父にあてた絶縁状が残っていて、祖父は母に対して将来自分の遺産でもめるようなことがあったらこれを皆に見せるようにと言っていたらしい。母は僕に「お前とは親でもない子でもないみたいなすごいことが書いてあったで」と言った。でもその手紙が今どこにあるかわからないという。祖父は当時の町内会長から勧められて公正証書遺言を残していた。この町内会長は博識で面倒見のよい学校の先生で、町の人々から信頼を集めていた。祖父の遺言書の中に長男の名前は書かれていなかった。


それからしばらくは平穏な日々がつづいた。僕は月に1回か2回、関西方面への出張にあわせて実家に行くようになった。母の入院をきっかけに父や母が亡くなったあとのことを真剣に考えるようになった。父も同じように思ったのだろう、父がもっている財産をはじめて僕に説明した。父は几帳面な人で財産の一覧を手書きの表にしていて、そこには保険や年金や投信などさまざまな項目が書きしるされていた。母名義のものやかなり古いものもあり、それらが現在どのような状況になっていて相続の時にどうなるのか僕にはわからなかった。サラリーマンの家庭なのでたいした財産があるわけではないが、父は証券会社の言われるままに分散投資をしているので細かいところは父自身よくわかっていないようだった。僕はまずはこれらを理解しようと家にある関係すると思われる書類や郵便物を読み始めた。

両親はもらった書類や家に来た郵便物は捨てない人たちなのであらゆるものが残っていた。残りすぎていてどれが必要なものかわからない。いくつかの封筒にはマジックペンで「重要」と書かれていたが、どうみても重要ではなさそうなものが含まれている。「返信」という文字に続いて日付が書かれた封筒もいくつかある。たしかにこれは優れた方法だが、どのような返信をしたかはコピーがとってないのでわからない。まずは時系列に揃えなおすことから始めなくてはならなかったが、これは意外と大変だった。父の表に書いてあるのに関係する書類が見当たらないないものもあった。逆に表にはない会社からの郵便物もいっぱいある。しばらくして保険の引受会社が契約時から変わっていることに気がついた。

あるとき思い立って伯母のかかりつけの医院に伯母と一緒に行ってみることにした。行きのタクシーの中で伯母は突然「あんたお腹切って大変やったなあ」と言った。僕にはそんな経験はない。「僕はお腹なんか切ってないで。誰かと間違えてるんと違うか」「え、あんたお腹切ったんとちゃうんか?」伯母は不思議そうに言った。「違う違う、僕やない」。診察に同席したあと診察室で伯母に言った「僕も診てもらうからお姉さんは受付で待っとって」「え、あんたも診てもらうんか」「そうや」。僕は医師に自己紹介してから伯母は認知症ではないかと言った。医師は当然わかっていた「そうですなあ、認知はいってきてますなあ」。介護認定の話をすると「うーん、最近は認定厳しくなっているからとれるかどうか…」。まだ軽度の部類ということなのだろう。


伯母と父は昔から仲が悪かった。実の姉と弟なのに悪かった。あるいは実の姉と弟だから悪かったのか、とにかく父は伯母と会話をすることすら嫌がっていた。それぞれに言い分はあるのだが僕から見ればどっちもどっちだった。伯母は配慮とか遠慮という言葉とは無縁の人だった。母はよく「お姉さんには感謝の気持ちというものがない」とこぼしていた。こう思っているのは身内だけではなかった。母は伯母をよく知る人から一度ならず「あなたあの人とよう一緒に暮らせてますなあ」とささやかれたと言う。これは母の寛容性に対する最大級の賛辞だった。それでも母はそれなりに伯母とうまくやっていたように僕には見えた。それは母が社交的な人で知り合いの数が多く、伯母からのストレスが相対的に薄まったからではないか思う。

一方の父は繊細で神経質なところがあった。少しでも体に気になることがあると病院に駆け込んで精密検査を求めるタイプだった。かかりつけの医者からも「もう少しおおらかでもよろしいのになあ」と言われていると母から聞いた。少しでも思うようにならないと子供のように理不尽なことを言い出すことがあり、母はそんな父としばしば口喧嘩していた。それでも母は父を全面的に信頼しており、父は母を頼りにしていた。あちこち二人で旅行に行っており客観的に見て仲のいい夫婦だった。そんな父が伯母とうまがあうはずがない。しかしわがままであるという点において父と伯母にそうたいした違いはなかった。母はあれは父の血筋だと言っていた。そう言われてみれば祖父や父の兄弟にも思い当たるふしはあった。それに自分もその血筋だ。


僕が食事を作るときは三人同時に食卓に座らせた。せっかく作ったのだから冷めたものを食べてもらいたくなかったのと、三人の区別はしないとうメッセージでもあった。しかし母が食事を作るときは別のルールが適用された。母は父と同時に食べ始めることはしなかった。父が食べるのをみて「あれいらんか」「これ使って食べへんか」「これふりかけるか」などとさかんに世話をやき続け、父が食べ終わるころになってやっと安心して自分が食べ始めるのが常だった。父が「スプーンはどこかな」とつぶやいたら僕は「うしろの上の引き出しに入ってる」と言って自分で取らせた。そんなことで母が死んだらどうするのだ。でも父が動く前に母は「ごめんごめん」と言って自分でスプーンを取り出して父に渡してしまう。母にとってスプーンを出していなかったことは失態なのだ。伯母は父が食べた後に母に食卓に呼ばれるのが普通だった。

僕は二階の整理をしたかった。いずれ誰かがしなければならない。それは僕になる可能性が高かった。畳の上に散乱しているものや廊下を占有しているものはほとんど可燃物なので捨てるのは簡単だったが、その中にはもしかすると誰かにとって重要な意味を持つものがあるかもしれない。これが何なのかという質問に伯母が答えられるうちに何があるのかを知っておきたかった。何よりもここには好奇心をかきたてるに十分な量の未知なるものがあった。僕は時々伯母に「ちょっとかたづけたろか」と言った。しかし伯母はあまりいい顔をしなかった。特に何かを捨てることは必ず拒否した。いつも「今度自分でやるからそのままおいといて」と言った。時によって「今度」は「週末」であったり「来週」であったりしたがそれが実行されないのは明白だった。

ある晩二階からおりてきた伯母が背後から僕に向かって「ヒロシー」と呼びかけた。僕はその場で固まった。そうだったのか。もっと早く気付くことはできなかっただろうかと自問した。たしかにヒロシ叔父さんは昔腹膜炎をおこして緊急手術をしたことがあり、その時は大変だったと聞いていた。伯母はいつからか僕のことを自分の一番下の弟だと思っていたのだ。僕は振り返って言った「僕はヒロシとちゃうで」。僕はあなたと一緒に暮らしているあなたの弟の息子だと説明して自分の名前を告げた。伯母はショックを受けたというより意外だったくらいの表情で答えた「あれ、そうやったんか」。これを軽度と言ってよいのかどうかわからないが僕は言った「まあ、名前なんかどっちでもええわな」。


伯母はよく電話をする人だった。昔は家に電話がひとつしかなかったので伯母が電話を使うときには一階におりてきた。仕事柄電話がかかってくることも多く、父や母が電話をとったら用件を聞き、伯母が家にいれば二階に声をかけた。伯母の電話は長かった。仕事の電話といっても会話の半分は世間話で、しかも夜遅くに長電話をするのでたまりかねた母は別の電話を二階にひくよう頼んだ。伯母はファクシミリ機能付きの電話機を買い、仕事では重宝していたようだが使用済みのFAX用紙が畳に散乱することになった。

伯母はよく通信販売でものを買っていた。新聞や雑誌の広告をみて電話するのだ。後払いで品物と請求書が送られてくる。家に届く郵便や宅配便はほとんど母が受け取ることになるので伯母が何を買っているかはだいだいわかった。母は受け取った伯母宛ての配達物を二階にあがる階段に置いていた。伯母は値が張るものを買うことに躊躇がなく毎月の電話代もかなりの高額になっていたが、経済的に自立しており他人に迷惑をかけているわけでもないので誰も何も言わなかった。伯母が貯蓄をいくらもっているのかは謎だった。老後のたくわえが十分あるのか誰も知らなかった。しかし伯母が自分の老後のことを考えていないことだけは確かだった。


あるとき伯母が県立病院の整形外科で診てもらうことになっていると言った。以前から腰が痛いとは言っていたが、どういう経緯でこの病院を受診することになったのか聞いてみてもいまひとつ要領を得ない。紹介状があるわけでもなさそうだった。自分で予約したのだろうか。伯母は昔からこの病院にはいい先生がいると言っていた。仕事柄そのような情報が入るのか雑誌か何かで読んだのかはわからないが、どの病院がいいとかあの先生が名医だとかいう話は昔からよくしていた。予約の日はちょうど僕が実家にいる時だったので一緒に行ってみることにした。

路線バスの終点近くにあるその病院に入ると伯母は知り合いを見つけたらしく、僕から離れてその人のところに行って親しく話し始めた。伯母より少し若いように見える女性だった。僕はその人に挨拶と簡単な自己紹介をして伯母と整形外科に向かった。大病院は最初にどこに行けばよいのか僕でも迷う。伯母が一人だったらたどりつけるのだろうか。整形外科を見つけて名前を告げるとX線撮影のところに行くように言われた。X線の予約がされているようだ。それが終わって診察の順番が来ると一緒に診察室に入った。医者は伯母にコルセットをしているかと尋ねた。していないのは僕でもわかる。背骨が曲がってきているのでコルセットしないと直すには手術が必要になると警告した。医者の言葉には、コルセットをしなさいと言ってるのにしないあなたが悪いというニュアンスがこもっていた。伯母は以前からこの医者にかかっているのだ。

会計を待っているときに伯母に言った。「お姉さんコルセットもってるんか」「もってる」「なんでせーへんねん」「してるで」「今してない」「今はしてない」「いつもはしてるんか」「してる」「ほんまか」「ほんまや」「コルセットせんと腰痛なおらへんで」「これからする」「これからしーや」。伯母が見栄をはっているのは明らかだった。忘れていたとか面倒だったとか正直に言うことができない。昔からそうだった。会計で名前が呼ばれたので僕が立ち上がって支払いをしようとすると、さきほど伯母が話していた女性が僕のところにやってきてこう言った「あなたがやったらだめです。自分でやらさんといけません」。


伯母は自筆の遺言書を残していた。実家の家庭用の小さい金庫の中にそれは置かれていた。母によればその内容は伯母の財産をすべて父に相続させるというものだった。遺言書がなければ兄弟全員で遺産分割協議をしなければならない。その中には断絶している長兄もいる。そして伯母と父が共有している土地には母が住んでいる。多数の相続人、疎遠な相続人、相続人の不和、土地の共有と難しい遺産分割の見本のようだ。両親は伯母に遺言書を書いてくれるよう再三頼んでいた。生返事しかしていなかった伯母は海外旅行に行く機会に遺言書を書いたという。当時は墜落した時のこと考えて飛行機に乗る時代だった。海外旅行は遺言書を書く気になるタイミングだったのだ。

この土地の伯母との共有割合に父は不満を持っていた。なぜ三分の二なんだ、四分の三じゃないのかと父が母に言っているのを聞いたことがある。父は共有すること自体に不満があるわけではなさそうだったが自分の持ち分が三分の二では納得できないらしい。三分の二と四分の三の違いが何なのかは僕にはわからなかった。どっちにしても伯母が死んだら全部自分のものになるのに。正確には伯母が父より先に死んだらだが。


この女性は伯母がここに来ることを知っていたのだ。知っていて待っていたのだ。僕よりはるかに前から伯母の認知症に気づいていてヘルパー役をしていたのだった。伯母の友人らしかった。僕は丁寧にお礼を言った。しかしこの女性の話は誰からも聞いたことがない。伯母も今日人に会うとは一度も言っていなかった。失礼ながらと言って名前と電話番号を聞いて別れた。帰り道に伯母に聞いてみた。「今日会った室井さんってどういう人や」「うちの前からの知り合いや」「今日は待ち合わせしてたんか」「いいや」「いつも来てくれるんか」「よう来てくれる」。いまひとつ話がかみ合わなかったが伯母の言葉に見栄が含まれているようには思えなかった。

帰って母に室井という人のことを聞いてみた。母は知っていた。シルバー人材センターで伯母と知り合い、家にちょくちょく来ているのだという。あいさつ程度しか話をしたことはないが部屋の片づけや掃除を手伝っているのではないかと母は言った。その割には部屋が片付いているようには見えない。僕とおなじくものを捨てることを拒否されているのかもしれない。きっと伯母は普段から病院には室井さんと行っているのだ。予約も室井さんがしているのだろう。僕はあらためてお礼を言うために室井さんから聞いた番号に電話をかけてみたが、誰も出なかったのでそのままになってしまった。

そろそろ介護認定に動いた方がよいのではないかと思ったが、母はいまだに伯母が認知症であるとは思っていなかった。母の考える認知症とは相当重度のものだ。それに今のところ現実的に困ることが起きているわけではないし、そもそも母は伯母の身内ではない。身内である父は伯母とは没交渉であり、伯母の病気は父にとって自分とは無縁な世界の出来事だった。僕は伯母と20年間一緒に暮らしたとはいえ今は離れて生活しており、月にせいぜい数日程度実家にいるだけなので伯母の状態をつぶさに知っているわけでもない。甥である僕が単独で伯母の人生にどれだけ介入すべきだろうかと考えつつ時間が過ぎていった。