伯母の話 前編 その2

母は隣の市で生まれ育った。母の実家は私鉄の駅の近くにあり、今の家からバスと電車を乗り継いで一時間程度で行ける距離にあった。僕が子供のころ、母は弟と僕を連れてよく実家に行っていた。父が単身赴任だったこともあり、泊まりで行くことも少なくなかった。このあたりはかつて新田と呼ばれた水田地帯で、近くには大きな川があり水には恵まれていた。すぐ近くに交通量の多い幹線道路が走っており、その南は工業地帯でその先は海だった。敷地には母屋と離れの二つの建物があり小さな庭を共有していた。母屋には祖母と母の兄夫婦とその娘二人、離れには母の姉夫婦が住んでいた。庭には小さな井戸があり、風呂は薪で焚いていたので割木がいつもたくさんあった。

母方の祖父は今で言う海運業の仕事をしていたらしい。しかしある時期から家に閉じこもるようになり、それ以来家族は祖母が支えていた。僕はこの祖父に会った覚えがない。母には姉と兄がいたが、姉は子供時代奉公に出ていたらしく母は姉と遊んだ記憶がないという。戦争がはじまってしばらくすると、母とその兄は学校に行くよりも軍需工場で手伝いをすることが多くなった。空襲が激しくなると家が焼けて住むところを失い、知り合いの家を転々とした。姉が働いていた工場も焼けた。兄は軍国少年で徴兵の年齢に達する前に自ら兵役を志願したが、心待ちにしていた召集の日が急に延期になり、連絡を待っているうちに戦争が終わった。母の少女時代は戦争とともにあった。


母の二回目の入院は計画的なものだった。以前から歩くと膝が痛むと言っていたが、加齢による関節の変形で自然に回復することは見込めないらしく、医者から人工関節への置換を勧められたのだった。入院したのは心臓血管センターと同じ医療法人の病院で場所も近くだった。三年前とは違って入院前に十分準備ができ、リスクもそれほど高い手術ではないので皆余裕があった。年末に入院して正月を病院でむかえるスケジュールだったので、僕はいつもより長く実家にいることができた。母が不在の間伯母と父の二人がどのような日常を送るのか興味があったが、僕が実家にいない日はせいぜい一週間か二週間なのであまり困ることもないだろうと思った。

入院した次の日に手術は無事終わり、あとはひたすらリハビリの毎日なので母は病室で退屈そうだった。時間課金のテレビを長時間見るので料金がかさむと言った。別の日に病院に行ったら母がすき焼きの作り方を父に教えたと言った。伯母がすきやきを食べたいと言ったらしく、父が病院に来た時にどうやって作るかを母に尋ねたという。僕は話がよくのみこめなかった。父が伯母にすきやきをつくっているという姿を頭に浮かべることができない。それでもそれが本当の話なら大変結構なことだ。母は「反対とちゃうか」と言った。料理するのは女の方だろうと不満そうだった。しかし伯母が父にすきやきをつくっている場面はさらに僕の想像を超えたところにあった。それなら父がつくることの方がまだありそうだった。

結局母は一ケ月病院でリハビリをしたのちに家に戻ってきた。片足だけでも人工関節を入れると身体障害者四級に認定されるとのことで、病院で身体障害者手帳の申請手続きをしていた。バスやタクシーが割引になるらしい。母は杖を持って帰って来たが杖をついて歩くのは恰好が悪いといやがっていた。僕は「八十超えて杖つくのは普通やろ。それに最近はおしゃれな杖がいろいろあるで」と言ってなるべく杖で歩かせるようにした。母はそのうちにカラフルな杖をどこかで見つけてきてまんざらでもない様子で持ち歩くようになった。まわりからその杖いいねと言われるらしい。そしてまた平穏な日々が戻って来た。


母方の祖父は二男だったが、長男が若くして亡くなったため期せずして自分が曾祖父の財産を相続することになった。するとそれまで会ったこともない縁者を名乗る人物が次々と祖父のもとにやってきて、何かと理由をつけて曾祖父の遺産の権利を主張しはじめたという。祖父とその兄が腹違いだったことも話を複雑にした。この親族間のもめごとが元で祖父は精神的に不調をきたし仕事ができなくなったらしいが、それ以上のことはわからない。母は祖母から「血ほど汚いものはない」とよく聞かされたという。祖父が遺産をいくら手にしたのかわからないが、その三人の子は皆義務教育もそこそこに働きに出ており、時代がそうだったことを割り引いても豊かとはいえない家庭だった。

戦争が終わり、もう空襲にあうことのない日々が戻ってきたが間借り住まいは続いていた。どこでもいいから大家に気兼ねなく住める自分たちの家が欲しいと買ったのが母の実家の離れの部分だった。そこは平屋で今でいう1Kに家族四人が住んだ。この時には母の姉はすでに結婚して家を出ており、ひと間のアパートに夫婦で住んでいた。母と兄は進学せず戦後まもなく近くの工場で働き始めた。その後社会の復興とともに少しずつ生活に余裕が生まれ、離れのとなりにあった母屋の部分の土地を買い増して新しい家を建てた。四人は新築の家に移り、離れには姉夫婦が住むことになった。何年かして母は結婚して家を出て、それから兄が結婚して祖母と一緒に母屋に住み続け、そして兄夫婦に女の子が二人誕生して僕が知っている母の実家の姿になった。


ある日伯母のかかりつけの医院から実家に電話がかかってきた。家族の方に至急来てもらいたいとのことだった。最初は伯母に同行していた室井さんが自分で話を聞くと言ったそうだが、医者は家族でないとだめだと断ったらしい。何事かと驚いた父と母が医院を訪れると医者は開口一番「何も二人で来んでもよろしかったのに」と言い、伯母が診察の予約確認の電話を一日20回もかけてくるので迷惑していると告げた。自分が意見書を書くので介護認定をとりなさいという話だった。手続きも手伝ってくれるという。よほど迷惑していたのだろう。しかしこの医者は、以前僕に伯母の介護認定は難しいと言った本人だった。

母が伯母の認知症を認識したのは大きな前進だった。母は医者の言う通りに介護認定のための手続きを進め、ほどなく訪問調査員の女性が家にやってきた。伯母は世間話をしている限りはしっかりとした受け答えをするので介護が必要な老人には見えない。見栄っ張りなのでインタビューしても自分で何でもできます何も困っていませんと言うに決まっている。しかし二階を見ればわかるはずだ。本当は二階にものが散乱しているのは認知症になるずっと前からなのだが、そんなことはもちろん誰も言わない。しかし二階にあがった調査員が指摘したのは別のことだった「おしっこのにおいがしますねえ」。そういえば僕は伯母が普段いる四畳半の部屋にはしばらく入っていなかった。

ひと月ほどして認定がおりた。要支援を通り越して要介護1が認められた。母は訪問調査員に教えられた通り地域包括支援センターに相談し、良岡という女性がケアマネジャーに選任された。母は良岡さんと話してまずヘルパーが週一回家に来て伯母の身の回りの世話をすることになり、それから週二回デイサービスにも通うようになった。デイサービスは朝に迎えの車が来て夕方に戻ってくるスケジュールだった。昼食も出るし風呂にも入れてもらえる。伯母の介護の体制ができたのは家族にとってありがたいことだった。伯母にとっても外に出て人と会う機会ができることはよいことだ。伯母の新しい生活がはじまった。


母の兄弟は皆仲がよかった。兄夫婦の娘二人は僕たち兄弟とそれぞれ同い年だったので母の実家ではよく遊んだ。姉夫婦のいる離れにも遊びに行った。この夫婦は母方のいとこ同士で、苗字は祖母の旧姓と同じだった。子供はおらず、部屋はいつも姉の夫のたばこの煙で視界が悪かった。正月は皆で餅つきをした。もち米を蒸すのは大人の女、杵に入れたもちをつくのは大人の男、つきあがった餅をちぎって餡をいれたりきな粉をつけたりするのは子供の役目だった。できあがった餅はたくさん家に持って帰った。祖母にとって僕は初孫だったので特にかわいがってもらった。行くたびにあれを食べろこれをつまめと次々と食べ物が出てきた。それが祖母の愛情表現だった。風邪をひいたと言ったら「風邪の神様お膳の下」と言われて余計に食べさせられた。

そして母の実家は皆信心深かった。兄夫婦はよく夜中のうちにどこかにお参りに行って朝には帰ってきていた。僕が小さかったころ、正月にお寺かどこかの集会所に連れていかれて子供向けの芝居を見たのを覚えている。それは悪人が死後閻魔大王に裁かれて舌を抜かれるという内容だった。メメント・モリは普遍的な道徳なのだ。実家には定期的に何人かがやってきて二階の仏壇の前で経をあげた。その時は家の大人たちも一緒に座って神妙に経を聞いていたが、じっとしていられない子供たちはその義務を免除された。読経が終わって訪問客が帰ると誰かが「今日は何番だった」と言うのを聞いたことがある。経文には番号があるらしかった。母によれば昔から皆が信心深かったわけではなく、あることがきっかけでこうなったという。母や僕は信者ではなかったが、僕が今でも線香のにおいをかぐと気持ちが落ち着くのはそれが母の実家での記憶と結びついているからだ。


伯母がデイサービスに行く日には、朝の迎えの時間までに朝食をとって出かける準備をしなければならない。そのタイムキーピングは母の役目だった。伯母は施設によく電話をかけ、明日は何時に来るのか今日はまだ来ないのかなどと言っているらしい。施設側は気をきかせたのか勘違いしたのか予定の時間より早く迎えに来るようになった。母が伯母を起こす時間が早まり、ただでさえ朝が弱い伯母はぐずって今日は休むなどとごねることがしばしばあった。行かないのならそれでもいいが家にいてもお昼ごはんは出ないと母が言うと伯母は行く準備をはじめる。デイサービスから帰ってきたら今日はお昼が出なかったと言い出すので、母が施設に確認するとお昼は全部お召し上がりになられましたと言われる。そんなことは聞くまでもないと思うのだが母は他人を疑うということをしない。

しばらくすると施設から、朝の迎えの時間を確認する電話が伯母から毎日何回もかかってくるとの指摘を受けるようになった。母がそのたびに伯母にデイサービスの曜日と時間は決まっているので電話をかける必要はないと言うのだが、そう言われたこと自体を忘れてしまうので仕方がない。施設も最初のうちは「そういう方はよくいらっしゃいますよ」と優しい言葉をかけてくれていたのだが、そのうちに「電話帳が手元にあるから電話をかけるのです。電話帳を取り上げてください」と現実的かつ有効な対処法を教授してくれるようになった。確かに伯母の枕元には小さな手帳型の住所録が置いてあった。そこにはたくさんの名前と電話番号が小さな字で書きこまれていた。長年使っているものだ。伯母にとって電話は外の世界につながる唯一の扉だった。まだ自分で開くことのできるこの扉の鍵を取り上げてしまうのはかわいそうな気がした。

週一回来るヘルパーは毎回サービスの実施記録を残していた。それを見ると布団をあげ部屋を片付け掃除をするというのが定型の作業のようだった。時々布団を干してくれている。これに加えて短い文章で伯母の様子が記されている。部屋に散らかっている衣服をいくら片付けても一週間後にはまた散乱していることがわかる。薬が正しく飲めていないことを指摘されることも多かった。母はヘルパーと協力して伯母の薬を毎月病院に取りに行き、三か月に一回は本人を診察に連れて行っていた。薬は母が一日ごとに小分けして伯母に渡していたが、そのうち母がすべて管理し伯母が一階で食事をとるたびに薬を渡して飲ませるようになった。母の負荷は次第に増えていった。


祖母は内陸部の農家に生まれ育った。トイレが外にあり炊事場が土間にある典型的な昔の民家だ。「顔洗うのも外やった。夜は真っ暗でトイレに行くのが怖かった」と母は言う。祖母は結婚して海の近くに移ったが、嫁ぎ先の家には下の名前が同じ人がいたため別の名前を名乗ることになったという。僕が知っている祖母の名前はこの通称の方だ。母によれば祖母は結婚前に地元に好きな男性がいたらしい。しかし結婚相手を自分で決める時代ではなかった。結局二人とも親が決めた別の相手と結婚した。母は僕に「おばあちゃんは結婚してからも何かと口実を作って自分の里に帰ってその人の家に行ってたんやて。向こうの奥さんがいやそうな顔してたって姉ちゃんがゆうとったわ」と楽しそうに話した。

祖母は六人兄弟の三番目で、上に兄と姉、下に妹と2人の弟がいた。兄の息子は祖母の長女の結婚相手、つまり母の姉の夫だった。戦争中海軍に従軍しており、姉夫婦が住んでいた離れにはその頃のセーラー服姿の写真が飾ってあった。祖母の姉の夫は戦後設立された仏教系宗教法人の創設者の側近で、母が子供の時この家に行ったら大人も子供も皆仏壇に向かってお経を唱えさせられたという。母の実家は皆この宗教の信者になったのだった。祖母の弟の一人は洋服の仕立屋として成功した人でテイラーさんと呼ばれていた。ハイカラな人だったらしい。もう一人の弟には息子が一人いたが、事情があって祖母はこの子を預かっていた時期があった。母はこの年の離れた従弟をかわいがりよく面倒をみたと言っていた。


僕は二階の書類の整理をはじめることにした。伯母がデイサービスに出ている間に廊下に積みあがっている膨大な書類を少しずつ手に取ってみた。一番手前にあるのはシルバー人材センターの会報だった。伯母はこの編集や校正をしていた。FAXでのセンターとのやりとりが残っている。何冊か取り出して記事を見ていくと、センターからの報酬の支払調書が出てきた。金額は思ったより大きく、ちょっとした副収入だった。現役時代の経験が重宝されていたのだろう。センターの運営にもかかわっていたかもしれない。いつか伯母は、シルバー人材センターは政府の補助金が減ってから運営が苦しくなったと言っていた。

書類の中には請求書や領収書の類もたくさん含まれていた。通信販売で買ったと思われる商品のものも少なからずあった。請求はすべて支払いを済ませているだろうか。時々現金も出てきた。書類の間に千円札が挟まっていたりするのだ。テレフォンカードや商品券が見つかることもあった。ますます書類の確認を一枚一枚念入りにするようになり、こんなペースでやっていたら廊下の突き当りまで整理が進むのに何年かかるかわからなかった。また伯母が現役時代に編集にかかわった書籍があった。医師が一般向けに書いた、人体の臓器とその機能の解説書だった。著者による序文の最後には、編集でお世話になったと伯母への謝辞が書かれていた。

一度伯母が何かの支払いに郵便局に行くというので一緒に行った。郵便局は家から普通に歩けば五分くらいのところにある。並んで歩くと伯母は背中が曲がってずいぶん小さくなったような気がした。「早う歩かれへんからゆっくり歩いてな」と伯母は言った。僕が「お姉さんはセンターで長いこと活躍してたなあ」と言うと、伯母は今もシルバー人材センターの事務所に行って仕事をしているような話をした。それは伯母の誇りなのだ。家の前の私道から公道に出るところは視界が悪く歩道もないので年寄りが歩くのは危ない。僕は伯母の手をとってゆっくり進んで郵便局に行き支払いをすませた。帰り道に伯母は「うちもあんたみたいな息子がおったらなあ」とつぶやいた。伯母がそんな話をするのは初めてだった。僕を甥と認識しているのだろうか。


祖母は昔の人がそうであったように、近しい人間関係を非常に重視した。母と同居している母の義父や義姉への盆暮れの贈り物は欠かさなかった。他人から何かをもらったら必ず近所におすそ分けをした。母は「おばあちゃんは美味しそうなもんをよそからもろても近所に全部分けてしもてうちの食べる分はほとんど残ってへんで悲しかった」と言った。そして祖母にとっての善悪は因果応報と密接に結びついていた。不義理や不道徳は「ばちが当たる」という言葉で厳しく戒められた。農家育ちの祖母は米を粗末に扱うことを許さなかった。食べ残しの米を捨てようとするると「ばちが当たって目がつぶれる」と言われた。祖母は明治から平成まで生きて九十五才で亡くなった。葬儀は自宅で行われたが、このころには庭の井戸は埋められ薪の風呂はなくなり離れの建物も空き家になっていて、僕が子供のころの記憶にある母の実家とは別のところになっていた。

母は気の毒という言葉をよく使った。これは他人のことを言う言葉ではなく、自分が恵まれていることが申し訳ないということを意味していた。人とのつながりで生きてきた祖母から受け継いだ母の世界観を示していた。母が身近な人に対して気の毒だと思う範囲は広かった。長年かかっている医者からもらう薬の量が減ったら先生のもうけが減って気の毒だと言う思考回路をもっていた。そして母も誰かに何かをしてもらったら、あるいは何かをしてもらったと思ったら必ずお返しをした。かつて姉夫婦が亡くなって離れを解体した時に箪笥から見つかった現金を母と兄で折半したことがあった。それを兄は信仰する宗教団体に全部寄付してしまったが、そのことをもったいないと言っていた母は父の身内に全部分けて渡していた。やっていることは親子そろって皆同じだった。「努力せんともろたお金は身につかへん」と母は言った。それはいかにも祖母が言いそうな言葉だった。


僕は実家に帰ると食事を作り、二階の書類の整理を進めた。母から伯母の様子を聞き、自分にできることがあれば手伝った。食事を作るようになってはじめて両親の好き嫌いを知るようになった。伯母がトマトときゅうりが嫌いなことは知っていたが、父が魚卵やレバーを食べないことを初めて知った。そういえば僕は実家でレバーをたべた記憶がない。母は好き嫌いはほとんどなかったが、父が食べないものを家で出さなかったと今になって知った。「お父さんはこわがりやから何でも火がよく通ってないと食べへんねん」と母は言った。たしかに父は僕が作る見たことのない食べ物に警戒心をもっていることがわかる。一方で両親に共通するのは柔らかいものを好むということだった。ゆですぎのスパゲッティでもまだ固いと言われるのには閉口した。

ある日伯母がぼや騒ぎをおこした。火事だと叫ぶ伯母の声を聞いて父が二階に上がったら電気ストーブから火柱があがっていたという。二階に水道はない。父は母に言ってバケツに水を入れさせて二階に持って上がりその水で火を消し止めた。父が言うには火は天井に達するほどだったとのことだが、本当はどうだっただろうか。あの燃えやすいものが散らかった部屋でそんな火事が起こったらすぐ燃え広がってバケツでは消せなかっただろう。母は「お父さんはこわがりやから火は消えてんのにまだ水かけ続けてて、一階に水が垂れてこえへんかと心配やったわ。あとで畳はがして乾かすの大変やった」と言っていた。何日かたって伯母の部屋を実際に見たら、畳には確かにほんの少しだけ焦げたあとがあった。

実際に燃えたのは新聞紙だった。伯母は昔から新聞を読むときに一枚一枚はがしてばらばらにしてしまう。新聞の記事を読んでいたのか新聞の広告を見ていたのか、その一枚をいつものように畳に放り置いたつもりがストーブを覆ったのだろう。父が伯母に怒鳴り散らしただろうことは想像に難くない。その場にいなくてよかった。しかし考えてみればこれまでよくそういうことがおきなかったとも言える。電気ストーブは危ないと言われた伯母は室井さんを呼んで一緒に家電店に行き温風ヒーターを買ってきた。それを使い始めた伯母はちっとも暖かくならないから壊れている取り替えに行くと言いだした。母が二階に上がってみたらヒーターが前後反対に置かれていて温風が後ろから出ていた。


父は隣の県で生まれ育った。父の実家も大きな川がそばにあって、近くに工場地帯がありその先は海だった。しかし僕はこの家のことはほとんど覚えていない。質素な長屋のようなところに玄関があったというかすかな記憶があるだけだ。しかしこれもあとになって誰かからそういう話を聞いたのを幼時の記憶と思い込んでいるのかもしれない。この家がいつ建てられたのかはわからない。戦争で焼けなかったので昔のものが残っていると聞いたことがあるので戦前からあったのだろう。父は戦争中のことはあまり語らなかったが縁故疎開をしていたらしい。近くの畑の芋をよく盗んで食べたと言っていた。この家では犬を室内で飼っていたらしく、「あの家は玄関の扉をあけるなり犬のにおいがきつくてかなわんかった」と母は言っていた。

父はスポーツマンだった。戦後地元の公立の商業高校に進み、硬式野球部に入りキャプテンで投手をしていた。甲子園にも一度出場しており、当時の新聞記事の切り抜きが家に残っている。プロ野球の球団からスカウトがあったそうだが、選手生命は短いとそれは断って高校卒業後すぐに地元の企業に就職した。入社後は当時ノンプロと言われていた社会人チームに入って野球を続けた。この会社で二歳年上の母と出会って結婚した。入社は母の方が早いので母が先輩だった。当時は結婚したら女性は家庭に入るのが普通の時代で、母は退職し父と社宅に入った。その後母は同僚だった女性の妹を同じ会社で働いていた自分の兄に紹介し二人は結婚した。


伯母の書類の山にはさまざまなものが含まれていた。健康診断だろうか、血圧や血液検査の数値が書かれた紙があった。最近のものだ。値はすべて正常で僕よりよほど健康に見える。実家では誰もたばこを吸わない。伯母は酒も飲まない。食事は母の手作りだ。認知症であることを除けば健康環境の点では完璧だった。年金証書も書類に埋もれていた。加入月数416とあった。大企業で定年まで働いただけあって企業年金も含めるとかなりの額をもらっていた。株の配当金の通知もあったがこちらは微々たる金額だった。いつか伯母が、知り合いから勧められて退職金で買った株でえらく損をしたと言っていたのを思い出した。

ある日母が、今度は警察沙汰になったと言った。伯母宛てに頼んでもいない商品が請求書とともに送られてきて、放っておくと支払いを要求する電話がかかってきたらしい。伯母はそんなものは頼んでいないと答えたが、相手が脅すような言い方をしたのでこわくなって郵便局に支払いに行ったらその話を聞いた郵便局員が警察に通報したという。勝手に商品を送りつけて支払わせるという詐欺がニュースにもなっていた時で、結局警察が直接店と話してくれて支払いは免れたとのことだった。しかし母は知っていた。伯母は確かに注文していた。注文したことを忘れてしまっているだけだった。母は警察にそのことを言わなかった。言う前に話がついてしまったらしい。警察もうすうすわかっていたのかもしれない。店にとっては大迷惑な話だ。

デイサービスが週三回になってしばらくしたころ、伯母が家の階段で足をふみはずして転落した。幸い打ち身程度ですんだのでしばらく一階で過ごしたあと二階に戻ったが、やはり階段は危ないということになり一階に介護ベッドを入れて伯母は一階で生活することになった。母の隣の部屋だ。近くに母がいると伯母は夜中でも話しかけてくる。そのことを良岡さんに話すとショートステイの利用を勧めてくれた。初めて泊りで施設に行く日、伯母がいやがったらどうしようと母は心配したらしいが特に何事もおこらなかったという。どうやら伯母は食事がでるところは自分の家だと思っているらしかった。母はしばしば伯母のことを食い意地が張ってると言ったが、食欲があることも施設を我が家のように感じていることも悪いことではなかった。


両親は社宅を何回か変わった。僕が生まれたのは野球場の近くの社宅の時だった。母は出勤する父を電車の駅まで見送りに行ったあと、僕を乳母車にのせたままよく球場に行ったという。そこは午前中清掃をしている間は入口が開いていて誰でも入れたのだった。社宅に住める年限が過ぎると、住宅関係の会社に勤めていた父の弟がすすめてくれた公営住宅に入居した。ここで弟が生まれた。僕は夜になるとこの団地の窓から「山一證券」という明りに照らされた看板が遠くに見えていたことを覚えている。このころ父が祖父と同居するという話になり、祖父と両親は新しい家を探しはじめたのだった。

祖父はもともと長男のところに行くつもりで、実際長男の家に住んだこともあったようだがうまくいかず戻ってきたのだという。母によれば祖父と長男の嫁との折り合いが悪かったらしいが確かなことはわかならい。今の家は父の知り合いの不動産屋が紹介してくれたものだったが、このあたりはかつて水田だったため当時は湿気が多く、母は本当はこの家には住みたくなかったと言っていた。しかし祖父と父はこの家に決め、僕が四歳の時に祖父はそれまで住んでいだ家を売って購入代金にあて伯母と一緒にこの家に入った。祖父は飼っていた犬もつれてきた。エリという雌犬だった。あとからこの家に入った母は犬を家に入れないでほしいと祖父に懇願し、エリは犬小屋が家になった。


良岡さんは優秀なケアマネジャーだった。家族の要望に沿うよう伯母の介護に関するさまざまな提案をしてくれてその説明もわかりやすかった。母の長話にいつも最後まで付き合ってくれる。僕も時間があえば会って一緒に話をした。ベテランなのだろう、顔が広く施設や業者とも人的なつながりがあるようで良岡さんを通すと話が早かった。伯母本人の希望はこの家にずっと居続けることだが、それが困難なのは明らかだった。伯母の介護度を見直しショートステイの回数を増やして母の負荷を減らす方向で計画が立てられ、それが着実に実行された。しばらくすると伯母の要介護2が認定された。しかし公的施設への入居には要介護3が必要で、それから施設の空きを待つ行列に並ばなければならない。先は長かった。

母はいつの間にか室井さんとも親しくなっていた。趣味が合ったらしく母が通っている詩吟の集まりに一緒に参加するようになっていた。母は室井さんから伯母のことを聞くようになった。室井さんは誰よりも伯母のことを知っていた。伯母は何でも値段の高いものを買うので驚くと母に言った。電話代が高額だったのも知っていた。伯母は室井さんを頼りにしていた。室井さんは伯母がいくつかもっていた銀行口座の預金を全部郵便局の口座に移して一本化した。株は父に売り時を聞いてそのタイミングで売ってこれも郵便局に入れた。かくして伯母の金融財産は郵便局の通帳ひとつになり、それは母が管理することになった。家族でもできないことを室井さんは全部やってくれた。通帳を見るとそこに記された残高は思ったより一桁少なかった。

あるとき母は伯母の手足が異様にむくんでいることに気づき、近くの医院に連れて行った。医者はすぐ入院させるように勧め、認知症患者を受け入れてくれる病院を探して県立病院にそのまま入ることになった。母は病院から戻ったその足で伯母の着替えなど入院に必要なものを二階から取り出して再び病院に持っていったら、そこでいつも家に来てくれているヘルパーとばったり出会った。母とヘルパーが病室に入ったら伯母はヘルパーに向かって「うちは捨てられたんや」と叫んだらしい。母は怒った様子でその話を僕にしたが、僕はいまだに伯母の言うことを真に受けている母がおかしかった。その後父も母と一度見舞いに行ったらしいが、伯母は父が誰だかわからなかったという。幸い伯母のむくみは大事には至らず数日で退院して戻ってきた。すると今度は「通帳を妹に取られた」と言うようになった。母は音をあげはじめていた。


僕は子供のころ父とよく将棋をさした。父に将棋を教わり、それからしばらくは父が会社から帰ってくると一局将棋をさすのが日課だった。僕が今でも将棋愛好者なのは父のおかげだ。父は野球をやめたあとゴルフをよくやっていた。シングルの腕前で家には父の名前が入ったトロフィーがいくつか残っている。スポーツマンの父には芸術系の趣味はなかったはずだが、僕が中学一年の誕生日になぜかクラシック音楽のピアノ曲のレコードを買ってきてくれた。ドーナツ盤と言われていた小さいレコードだった。そこで聴いたある曲がきっかけとなって僕は我流でピアノを弾きはじめ、クラシック音楽を一生の趣味にするようになった。これがなかったら僕の人生は違ったものになっていたに違いない。

父は気が小さいだけでなく極端に気の短いところがあった。乗り継ぐつもりの電車が目の前で出発してしまうと「なんで待たへんのや」と駅長室にどなりこんだ。気持ちはわからないこともないが、駅長室の外で待っている母がつぶやく「あれがいややねん」という気持ちの方がよくわかった。父は待つということができない。行列に並んでいるとそのうち我慢できなくなって「なんで待たされるんや」と文句を言いだし自分の順番を先にしようとする。病院でもそれをやったらしく、さすがに医者から怒られてしょげて帰ってきた父を慰めたと母が楽しそうに話していた。伯母とも時々口喧嘩をしていた。「はよ出ていけ」「ここはうちの家や」という不毛な会話を聞くのが僕は心底嫌だった。論理的には伯母は正しい。伯母は三分の一の権利を持っているのだから。


ある晩父が「数字が合わへん」と言っているのを聞いた。確定申告の書類を書いている時だった。実家は三人とも年金生活者だったが、医療費の支払いが結構あるので確定申告するといくらか還付金がもらえると言って父だけは毎年申告をしているのだった。すべて手書きで申告用紙に記入するので確かに間違えやすそうだった。僕は父と話しながらどこが違っているかを見てみることにした。すぐに原因がわかった。年金の源泉徴収票に書かれている数値を申告用紙に写し間違えていた。父は申告用紙の数値を消しゴムで消して書き直そうとした。しかしそれはうまくいかなかった。7桁の数値を正確に写すことができなかった。書き写すには書かれた内容を一時的に記憶しなければならない。それが苦手になっているようだった。

僕は父にかわって確定申告書を書くようになった。几帳面な父は申告に必要な書類はすべて揃えていた。医療費の領収書も母の分も含めてすべてとってあった。計算してみると確かに還付金があることがわかる。それならば父と同じくらい年金をもらっている伯母の確定申告もしてみたらどうかと思った。伯母の医療費の領収書が全部揃うとは思えなかったが、デイサービスやショートステイに関する書類は母がすべて残している。これらはよくできてきいて毎月どれだけの金額が控除対象になるかが一目でわかる。あるものだけ集めて実際に申告書を書いてみるとやはりいくらか戻ってきた。還付金は伯母の郵便貯金の口座にいれて、多少なりとも伯母の収入増に貢献できた。

父の異変に気付いたのは僕だけではなかった。母の一回目の入院以来毎週家事手伝いに来てくれている家政婦が父を病院に連れて行った方がよいと母に言ったのだった。僕は気が付かなかったがしばしば歩くのがふらついているという。母によれば父は以前からめまいがすると言っていたらしい。父と母が行ったのは内科と精神科を診療科とする医院だった。ここの医師は二代目で、先代には僕が子供のころよく診てもらった。診断はパーキンソン病だった。母は医師や良岡さんと話して介護認定のための手続きを行い父は要支援1の認定を受けた。その直後に今度は母が整形外科で介護認定を勧められ、父と同じく要支援1の認定をとった。母は特に介護サービスを利用するつもりはなかったが医者から取っておいて損はないと言われたのだった。良岡さんは三人のケアマネジャーになった。


父は会社の最初の上司に大変気に入られた。上司に恵まれたと母は言っていた。母は同じ職場の先輩だったので入社当時の父のことをよく知っているのだ。確かに父は付き合いはいい人だった。この上司のおかげで父はその学歴に比してかなりの厚遇をうけたようだった。この上司は後に小さな子会社の社長に就任し、父は定年になるよりもずいぶん前に誘われてこの会社に移った。そこで昇進して役員にもなり、定年後も長く働くことができた。社長の退任後父は定期的に元社長を囲む会を主催していた。実家にはこの人が書いたという掛け軸が今もかかっている。

父は仕事をやめてからしばらく陶芸を習っていた。実家には父が作った茶碗や湯呑が残っている。それもやめたあと今度は絵画教室に通い水彩画を描くようになった。父が芸術系の趣味をもつようになったのは意外だったが、これは性に合ったようでとても熱心だった。教室のメンバーとあちこち写生に出て、写真もたくさん撮っていた。実家の玄関には額にいれた父の絵がいくつも飾ってある。父は教室では幹事役をしており指導者の画家の先生からも頼りにされていた。取りまとめ役が得意だったのだろう。この先生は敬虔なクリスチャンで、宗教的なテーマを表現主義的な手法で描く人だった。父はその先生が亡くなるまで絵を続けていた。


母が三回目の入院をしたのは伯母が要介護3の認定を受けたころだった。認定の通知が来るとすぐに伯母の特別養護老人ホームへの入居を申し込んだが、母はもう待っていられないと民間の施設を良岡さんに相談していた。しかし伯母の貯金額を考えると選択肢は限られていた。そのうち母は立ち上がると足腰が痛いといいはじめ、なかなかよくならないので専門医にみせたら背骨が折れているという。歳だからリスクはあるが手術をするかと医者に尋ねられた母はすると即断した。入院の日僕は母と一緒に病院に行き手続きをした。歩くのがつらいという母を車椅子に乗せ、病院内を移動しながら母の話を聞くと伯母をかかえあげたときに背骨を傷めたようだった。父がもう少し伯母の面倒を見るのに協力してくれていればと思うと段々腹が立ってきた。父は伯母のことを母に負担をかけていると非難するだけで母に頼まれない限り自分では何もしなかった。一日中家にいるのに。母にとって伯母は夫の姉だ。赤の他人もいいとろだ。伯母はあなたの実の姉だ。母がこうなったのはあなたのせいだ。

良岡さんは母の入院中、伯母がショートステイを続けていられるよう手配してくれた。父にはこのタイミングでヘルパーをつけ、食事の用意をしてもらうことになった。父は自分でするからいらないと最初は言っていたそうだが、しばらくすると今度はいつ来てくれるのだったかと自分から確認の電話を入れるようになっていた。良岡さんによれば男性は遠慮する人が多いと言う。プライドが邪魔するのだ。僕は父が冷凍食品の電子レンジでの解凍に戸惑っていることに気づいた。解凍するにはパッケージを読んで何分レンジにかけるとか、ビニールを取る取らないといった指示を読まなくてはならない。その理解がおぼつかなくなっているようだった。あるいはボタンひとつで温める以外の電子レンジの機能を使ったことがなかったのかもしれない。

入院中の母はいつものようにのんきなものだった。母は僕に「あの看護婦さんな、『三十までには結婚しようとおもとったけど三十になってしもた』ってゆうとったで」と言った。みんな年寄り相手だと油断するのだ。母は誰にでも年齢と家族構成を尋ねた。母にとってそれは名前の延長にある情報だった。別の日に病室に行ったらしりもちをついたという。ベッドから起きあがれるようになってもまだ一人で歩かず立ち上がる時は必ず杖を使うよう言われていたのに、何かを取るために立ち上がってそのままニ三歩歩いたらバランスを崩したのだった。その話を母から聞き終わらないうちに、三十才の看護婦がどたどたとやってきた。「聞いたで、聞いたで、杖つかんと歩いたんやて。あれほどゆうたやろ」「いやあ、ちょっともの取ろうとおもて。やっぱり結果には原因があるなあ」。母はこの歳にしてようやく安全の基本を体得したようだった。


父方の祖父の若いころの話は聞いたことがない。どんな仕事をしていたのか父もよく知らなかったようだ。僕が知っているのは祖父は2回結婚しているということだけだった。最初の女性は早くに亡くなって子供はなく、再婚した女性との間に六人の子が誕生したと聞いた。祖父はこの家に来た時にはすでにリタイアしていて毎日かなりの距離を散歩していた。元気な人だった。食事の残り物を持って出て近所の野良猫にそれをやっていた。猫に餌を与えないで下さいと書いた看板がすぐそばにあったが祖父は無視した。近くの山が自然公園になっていて、しばしばそこまで行って気に入った木や草を抜いてきて家の小さな庭に植えていた。そこでは植物の移動は禁止されているのだが、それを意に介す祖父ではなかった。誰かに指摘されてもこれは皆のものだと譲らなかった。母との関係は良好だった。祖父は何でも自分でする人なので手はかからななかった。

祖父が亡くなったのは僕が大学生の時だった。夜電話をかけてきた母は、祖父が日課の散歩から帰ってこないので警察に捜索願いを出したと言った。翌朝山で倒れている祖父を通行人が発見した。葬式は実家で行った。家に帰ると門には忌と書かれた提灯が立てられており玄関には黒と白の幕が張られていていた。父方の親戚が集まってにぎやかになった。母の兄と姉も手伝いに来てくれた。僕が会ったことのない縁者が何人か来ていたが、その中に祖父の長男はいなかった。町内会長だった先生が立派な弔辞を読み、山を愛したおじいちゃんらしい最期と言ってくれた。祖父は93歳だった。祖父の遺産は遺言書にしたがって相続され、この土地の権利は伯母と父で共有となった。


母は三週間入院して家に帰ってきた。腰の痛みも軽くなったようで、ゆっくりながら以前のように杖で歩けるようになっていた。これ以上伯母の面倒を母にみさせることはできないと思っていたら、母が戻ってすぐに特別養護老人ホームに空きが出て伯母が入居できることになったと連絡があった。こんなに早く決まるとは母も僕も予想していなかった。きっと良岡さんががんばってくれたのだ。この家の老々介護の実情を説明して順番をあげてもらったのだろう。このホームは伯母がショートステイに行っている建物のとなりにあり同じ法人が運営していた。伯母の状態はショートステイ先の職員がよく知っている。ホーム側との情報共有もスムーズだろう。さっそく入居のための手続きを始めた。

ホームのリーフレットには「ここは病院ではありません」とあった。「様々な理由によって介護を必要とし自宅での生活を継続できなくなった高齢者の皆さんが、終生にわたって、自宅と同じように安心して生活をしていただくための老人ホームです」。そう、ここは終生住むところで、ここに来るには様々な個別の事情がある。入居者の大半が認知症の症状を持っているとも書かれていた。サービス利用料金を見ると公的施設だけあって自己負担額は少ない。食費やおやつ代を含めても伯母のもらっている年金額の半分でやっていける。伯母のように年金を少なからずもらっている入居者からはもっと徴収して職員の待遇向上にあててくれてもいいのにと思った。看取り介護は誰にでもできることではない。

書類はケアマネジャーである良岡さんが施設に届けてくれ、伯母はショートステイ先からそのまま隣の建物に移った。母は伯母の衣服など当面の生活に必要なものを段ボールに詰めて施設に送った。僕は施設に今後の連絡はすべて自分宛てにするよう伝えた。レンタルしていた介護ベッドは返却され一階は元通りになった。母の介護の日々は終わった。母が最初に入院してから7年半の歳月が経っていた。しかし二階の伯母の書類はまだうず高く積まれており、たいして減ったようには見えなかった。そしてもうひとつ気になることがあった。それは伯母の遺言書だった。そこには本当に全財産を父に相続させると書かれているのだろうか。そもそも自筆証書遺言として有効な書き方がされているのだろうか。今から伯母に何かを頼むのは不可能だった。引き返せるポイントはすでに過ぎていた。