藤沢市の馬頭観音塔一覧(藤沢市中北部)

前回に引き続き、藤沢市中北部の馬頭観音塔一覧を紹介します。馬頭観音塔は主に社寺・個人宅・墓地・辻などに見られますが、目立たない道端や畑の傍にぽつんと置かれていることもよくあり、記録にあっても実物を見つけるのに苦労することが少なくありません。また記録にない馬頭観音塔が偶然見つかることもしばしばあるので、ここにあげたもの以外にもまだたくさん残っていると思われます。

【3.遠藤地域(遠藤村)】

遠藤地区は現在の遠藤にほぼ相当します。かつて遠藤は純農村地帯でしたが、その南部は工場の進出や湘南ライフタウンの開発でその姿が一変しました。現在所在不明の馬頭観音の多くはかつてそこにあったと思われるものです。これらも含め遠藤地域で知られている馬頭観音塔は、すべて明治以降に建てられた文字塔です。

遠藤68天神社前の辻
3-1A字個尖昭和五 (1930)「南無妙法蓮華經」「馬大正十二年九月廿一日」
[資] には3-5と同位置とある
資, 総3, 石, E
遠藤180-50湘南泉霊園
3-2A字個自大正九 (1920)個人墓域 
[資] は3-3と同位置、[総3] には宝泉寺境内とある
資, 総3, E
遠藤210
3-3A字個自明治二十九 (1896)資, E
遠藤1355個人墓地
3-4A字個駒昭和十六 (1941)
遠藤1434共同墓地
3-5A字個自大正三 (1914)個人墓域資, 総3, 石, E
3-6A字個柱昭和五十 (1982)個人墓域
遠藤4236個人邸沿
3-7A字個弧昭和四 (1929)資, 石, E
遠藤4712個人墓地
3-8A字個板昭和十七 (1942)[総3] には3-5と同位置とある資, 総3, 石, E
遠藤5709路傍
3-9A字個弧明治五 (1872)資, 石, E
遠藤6416共同墓地
3-10A字個弧昭和十七 (1942)個人墓域資, E
遠藤1505大瀬戸稲荷
XX字個弧昭和九 (1934)現地になし資, 石, E
遠藤2217
XX字無重明治三十 (1897)現地に見当たらず資, E
遠藤 滝ノ沢
XX字個駒大正十一 (1922)場所不明資, E
遠藤 矢向
XX字個柱昭和二十 (1948)「供養塚」、場所不明資, E

【4.六会地域(石川村、西俣野村、亀井野村、今田村、円行村)】

六会地域は現在の石川・亀井野・西俣野・今田・円行に加え、天神町(かつて石川の一部だった)、湘南台の大部分(亀井野・今田・円行の一部だった)、桐原町(今田・円行の一部だった)にほぼ相当します。亀井野の宝暦六年塔はかつて小堂にあった時の写真を『藤沢市文化財調査報告書第十一集』(1975)に見ることができますが、失われてしまったようです。

天神町2-9-1個人邸内
4-1A字個自明治四十二 (1909)
石川141佐波神社同所に庚申塔・地神塔など多数あり
4-2A字集自天保二 (1831)「馬持講中」史, 総3, 石
石川1-29共同墓地
4-3A字個柱昭和五十三 (1978)個人墓域「日露戦争兵役二頭戦死」「再建」
4-4A字個自明治三十四 (1901)個人墓域
石川2-31共同墓地
4-5A字個自大正十五 (1926)個人墓域
石川5-3-12路傍
4-6A字個自大正十 (1921)[1]
石川5-9-18小祠同所に庚申塔あり
4-7A字個弧不明[2]
石川4666石川東町内会館傍同所に道祖神塔二基あり
4-8A字集尖嘉永五 (1852)「セハ人 惣運中」総4, 石, O
石川4143
4-9A字個自大正十三 (1924)畑の中にある総3
石川4148
4-10A字個自大正十四 (1925)総3
石川 矢向
XX字個柱昭和三 (1928)場所不明、「南無妙法蓮華経」
西俣野19路傍
4-11A字個尖明治二 (1869)
4-12A像集舟天保三 (1832)二臂立像 世話人三名銘あり
西俣野459共同墓地
4-13A字無自明治四十三 (1910)個人墓域
西俣野866花応院
4-14A字個?大正元 (1912)上部欠損資, 総3, 石
4-15A字個自昭和十九 (1944)上記の再建塔「大正二年九月建之」「再建」総3
4-16A字個自昭和十二 (1937)個人墓域
西俣野2052神明社同所に庚申塔・地神塔・巡礼塔等あり
4-17A字個駒天保九 (1838)「南無馬頭観世音」史, 総3, 石
西俣野2592路傍
4-18C像?舟不明二臂立像、上部欠・著しく風化[3]
亀井野391法泉寺
4-19B字個自明治三十五 (1902)「種々諸悪趣 以漸悉令滅」「南無妙法蓮華経」
亀井野1580先
XX像集?宝暦六 (1756)現地になし、立像 「雲昌歴代」

[1] 『土偶第二号』(1981 神奈川県立藤沢北高等学校郷土研究部)に記載あり
[2]
個人ブログ(こちら)に記載あり
[3] 『善行案内記』(1982 善行公民館)に記載あり

(4-2) 石川141 佐波神社 (1831)
(4-8) 石川4666 町内会館傍 (1852)
(4-11,12) 西俣野19 路傍 像塔 (1832) 文字塔 (1869)
(4-18) 西俣野2592 路傍 (造立年不明)

写真左上は石川の佐波神社にある文字塔で、庚申塔や地神塔などとともに参道右側に一列に並べられています。このあたりは昭和四十年代にはじまる区画整理でその姿が農村から住宅地へと大きく変貌し、開発にともなって行き場を失った塔がここに集められています。この馬頭観音塔の銘文は以下の通りで、馬持講中と記されていますので、これは個人の馬の供養塔ではなく村の馬の健康や安全を祈願して造られたもので近くの辻に立てられていたと推察されます。

4-2 石川141 佐波神社 角柱自然 天保二(1831)
[正面]天保二卯年 石川村 馬頭觀世音 十月吉日 馬持講中

写真右上は石川東部の最南端、大庭や善行との境界付近にある文字塔で、同所には道祖神塔も2基置かれています。このあたりは昔の姿が残っているところで、この馬頭観音塔も当初の位置から大きく変わっていないように思われます。この前の道は旧厚木道の一部をなしており、かつては主要な交通路でした。そのことはこの塔の銘にある惣運中という言葉にもあらわれています。この塔も道祖神とともに村の安全を祈願するものだったのでしょう。

4-8 石川4666 石川東町内会館 角柱尖頭 嘉永五(1852)
[正面]馬頭觀世音
[右面]嘉永五子年八月吉日
[左面]施主 丑治良 セハ人 惣運中

写真左下は西俣野の最北端、今田との境にある二基の馬頭観音塔です。天保三年塔には二臂の立像が彫られており、あわせて世話人一名と施主二名の名が記されています。施主のうち一名は西俣野の南にある立石の人物であり、個人の馬の供養塔ではなさそうです。また他の二名には母と書かれているのも大変特徴的です。明治二年の塔の銘には喜右衛門とあったと思われますが、これは天保三年塔の喜右衛門母の息子だったのでしょうか。一方でこれらの塔の位置は、亀井野雲昌寺の裏にあたる東側を南北に通る古い旧道からさらに東の急な坂を下った境川の近くで、かつては人家がまったくないところでしたので、このあたりに馬捨場があったのかもしれません。

4-11 西俣野19 路傍 角柱尖頭 明治二(1869)
[正面]馬頭觀世…
[右面]明治二巳年五月…
[左面]施主 □田喜右…
4-12 西俣野19 路傍 舟型 天保三(1832)
[正面]〔二臂馬頭観音立像〕
[右面]西俣野 天保三辰三月吉日
[左面]世話人喜右ヱ門母 施主彦左ヱ門母 立石市良兵衛

写真右下は西俣野の最南端、立石との境にある水道橋の下にぽつんと置かれている二臂の像塔です。上部が欠落しており頭部を確認することができませんが、馬頭観音塔と伝えられています。銘はあったのかもしれませんが確認できません。『善行案内記』(1982 善行公民館)には古老の話として農耕馬を供養したとあります。このあたりは立石集落の北の入口にあたり、今は少々寂しいところですがかつてはこのすぐ南にある立石不動を訪れる人が多く賑わっていたとのことです。

4-18 西俣野2592 路傍 舟型 年号不明
[正面]〔二臂馬頭観音立像〕