伯母の話 中編 その1

その施設は山の中にあった。自然に囲まれた静かなところだ。今から50年ほど前に社会福祉法人が国有林の払い下げをうけて総合社会福祉センターとして開発した区域の一角だった。すぐとなりには別の特別養護老人ホームと児童発達支援センターがあり、南側には別法人の精神科の病院、北側にはこれも別法人の病院とそれに付属した教会があった。そして道路をはさんでこの区域の南側には巨大な貯水池があり、西側には広大な市営墓地があった。貯水池や墓地も総合社会福祉センター開発と同時期に森林を切り開いて造成されたもので、それ以前このあたりは森以外何もないところだった。

ここには民家がなく夜は前が見えないほど真っ暗になったが、人里離れたところというわけではなかった。近くには自然公園がありハイキングコースにもなっていて、行き先が異なる二系統のバスが一時間に一本ずつ走っていた。実家近くのバス停から市営墓地まではこの路線バスで10分ちょっとで行けた。市営墓地には祖父が建てた墓があり、僕が子供のころはお盆になると毎年家族全員で墓参りに訪れていた。我が家の墓は新しいものだったが、その墓域の中にもうひとつ小さな古い墓石がぽつんと立っていた。早くに亡くなった祖父の最初の妻の墓で、以前別のところにあったものをここに移したという。

この施設を訪ねるのは初めてだった。市営墓地のバス停から少し戻って福祉センターの看板のあるところから敷地に入り、しばらく進んだ奥まったところにその建物はあった。桜の季節はもう終わりに近づいていたがこのあたりはまだ少し肌寒い。ガラスの扉を入ると中は暖かく静かだった。廊下には何も置かれていない。築50年とは思えないほどきれいなところだ。受付で打ち合わせに来たと告げると小部屋に案内された。しばらくすると伯母を担当するという三人の女性がやってきて話がはじまった。お互いの自己紹介のあと施設の紹介やサービスの内容、費用などについて丁寧な説明があった。看取り介護について家族の意向確認もあった。精算は郵便局の口座引き落としに限ると聞いて僕は室井さんを思い出した。僕はあらためて今後の連絡は自分宛てにするようお願いした。

話が終わると二階にある伯母の部屋に案内してもらった。二階も廊下には何も障害物がなかった。部屋は清潔で窓が大きく外がよく見えて明るかった。そういえば実家の伯母の部屋の窓は小さいすりガラスでその向こう側は雑木林だったでので日の光があまり入らなかった。地主が林の手入れをしないので木の枝が伯母の部屋の窓までのびていたのだ。新しい伯母の部屋に伯母はいなかった。あちらにいらっしゃるのではと言われた方向に行ってみると食堂か集会室のような開放的な空間があり、大きなテーブルを何人かが囲んでいる中に伯母がいた。伯母は車椅子に座っていた。いつから車椅子になったのだろうか。僕は伯母の横の椅子に腰かけた。

僕は伯母に「こんにちは」と言った。まわりの老人が誰だという顔でこっちを見ている。「お元気ですか。いかがお過ごしですか」「おかげさまで元気にしております」「今日はちょっと冷えますねえ」「そうですか。あまり外に出ないのでわかりませんがそうみたいですねえ」。それは僕が知っている伯母の外向きの話し方だった。少し安心した。「お姉さん、僕のこと覚えてるか。長いこと一緒に住んでたんやで。お姉さんがシルバー人材センター行ってたこともよう知ってる」。僕は自分の名前と伯母との関係を説明して自己紹介した。僕が父の名前を出すと、伯母は父と「いろいろあってなあ」とため息をついた。伯母のこんな悲しそうな顔を見るのははじめてだった。僕は話題を変えて伯母がセンターからもらった感謝状の話をした。二階の床の間がある部屋で見つけたものだ。黒い筒に入っていた。伯母は話を聞くと嬉しそうな顔をした。

施設を出てバス停に戻る途中に美術館と書かれた看板があることに気づいた。こんなところに美術館があるとは全然知らなかった。施設の北側の病院と教会の裏側にあるようだ。場所を確認しようとバス停の手前の急な坂を上ってみた。右手に見える病院を過ぎ、教会を過ぎると壁面にモザイクタイルで風景が描かれた箱型の建物が見えてきた。これが美術館らしい。明るい色合いで海辺にあっても似合いそうだ。病院のオーナーが建てたものなのかもしれない。入ってみようかとも思ったがバスの時間が迫っていたのでそれはまた今度にして来た道を引き返した。ここにはこれから何度も来ることになる。急ぐ必要はない。


伯母が施設に入居すると母はデイサービスに通い始めた。良岡さんに勧められのだろう、高齢者向けのリハビリマシンがいくつもあるリハビリ特化型の施設で、週一回午前中のコースに参加した。朝8時半に迎えが来て昼には戻ってくる。施設のスタッフや利用者とのおしゃべりが楽しいらしい。脳トレーニングだろうか、左右の指に違う動きをさせる運動が難しくて皆いつのまにか両手が同じ動きになってしまうと楽しそうに話した。父の方はもう習い事には行っておらず、ちょくちょく一人で散歩に出ていた。祖父のように山の方までは行くことはなく、ごく近くを歩いているようだった。

母は八十代後半になり、耳がずいぶん遠くなってきた。テレビの音量が大きい。僕が音量を下げると「あんたそれで聞こえるんか」と言う。デイサービスの日は母は必要以上に早起きするので6時にはテレビの音がうるさくて目が覚めてしまう。ヘルパーが気をきかせてテレビに字幕が出るように設定してくれた。ほとんどのテレビ番組に字幕が出せることを僕は初めて知った。母はしばしば父の言っていることを聞きとれずに全然違った内容のことを返事していた。しかし父の方もちゃんと聞いていないのか理解力が落ちているのか、うんうんと言って会話が成り立ってしまっていた。

二階の書類の山からは相変わらずいろいろなものが出てきて退屈しなかった。多いのは写真だった。写真の入った伯母宛ての封書がたくさんある。知人が送ってくれたものだ。伯母は裏千家の茶道を習っていたので和服の写真が多かった。和服の集合写真は美しくて見応えがある。そういえば伯母は和服を着て出かける時には知り合いを呼んで着付けを手伝ってもらっていた。一枚だけステージで伯母が何かを話している写真があった。演台には「議長」と書かれた白い紙が貼ってある。写真の日付をみると市のシルバー人材センター創立三年目にあたっている。センターの行事かもしれない。伯母は議長をするほどの要職にあったのだろうか。そして創立十五年の功労表彰者4人が写った写真の中に伯母の姿があった。

また小物を並べた机の後ろに伯母が立っている写真があった。センターが催したバザーだ。この話は母から聞いたことがある。手作りの小物を持ち寄って販売する会だったが、伯母は裁縫の類はまったくできなかったので誰かに頼んで作ってもらった。布代などの実費は会が終わったあとで伯母が支払う約束になっていたのに支払いが遅れに遅れ、頼まれた側はたまりかねて母に請求して来たという。母は伯母に言って色を付けて支払わせた。この手の話はよくあったらしい。今は昔の話だ。何百枚と出てきた写真のなかからよさそうなのを50枚ほど選んでアルバム一冊に整理した。

通帳もたくさんあった。定年になってからのものがほとんどだったが、どれを見ても大きなお金はなかった。まとまった入金があってもすぐ引き落とされている。ある銀行の通帳をたどっていくと、いくらか金融商品の貯えがあったようだがこれを担保にした普通預金のマイナスが10年以上続いておりその間高額な借入利息を支払い続けていた。また契約者貸付制度を利用して現金を頻繁に引き出している生命保険も複数あった。保険は今も継続されていれば定期的に郵便による通知が来ているはずだが、そんなものは見たことがない。すでに満期になったか失効したかのどちらかだろう。おそらく後者だ。

それにしてもなぜそんなに現金を必要としたのだろう。ひとつには、あったらあるだけ使うという現役時代からのスタイルが定年後も変わらなかったからだろう。もうひとつ、伯母が定年後に立ち上げた小さな会社に関係すると思われる伯母名義の通帳があった。これを見ると最初のうちは法人からの入金が結構あったようだが、それが段々細っていくとともに現金での入金が増えている。確かなことはわからないが運転資金が必要だったのかもしれない。伯母は定年後現役時代の会社の下請け仕事をしているとは言っていたが経営状態を聞いたことはなかった。もしかすると苦労していたのかもしれない。

伯母が定年を迎えてちょうど30年になる。配偶者も子供もいないのだからお金を残す必要はない。生きているうちに好きなことをして全部使ってしまうのは正しい生き方だ。今の貯金残高は使い切る少し手前くらいだが、今後足りなくなることはないと家族が安心できる程度には残っている。僕の知る限り伯母に負債はない。上出来だ。遺産をすべて母に遺贈するという遺言でも残していれば完璧だが、それができる伯母ならそもそも母は苦労をしていない。それに母は遺産をもらっても現金は父の親族に分け与えてしまうだろうから、結局相続人で遺産分割するのと大してかわらない。


施設からはしばしば電話がかかってきた。伯母が微熱をだしたとか、つまづいて少しあざを作ったといった報告があった。僕はその程度のことは誰にでもあることなのでわざわざ連絡していただかなくても結構と言うのだが、そうもいかないルールらしい。また計画外の費用が必要となるときには金額にかかわらず事前に承認を求められた。歯の治療をしてよいかと尋ねられ、治療内容と概算金額の説明を受けた。眼鏡の度があわなくなったのでレンズを取り換えてよいかとも聞かれた。もう伯母が通信販売でものを買うことはない。施設への支払いが少々増えてももらう年金の方がまだ多い。実際伯母の貯金残高は少しずつ増えていた。

施設ではさまざまな行事が行われているようだった。家族にも参加の案内が来るが予定があわずそのタイミングでは行けない。次に施設を訪問した時にはシルバー人材センターの感謝状を持って行った。伯母の部屋がやや殺風景な気がしたので、これを額にでも入れて飾ってはどうかと思ったからだった。実家近くのバス停から市営墓地方面に行くバスはひたすら坂道を上って進む。かつて天皇皇后が宿泊したという高級料亭の跡地を過ぎたあと自然公園の手前あたりから人家がなくなり、さらに上って千年以上の歴史をもつとされる寺院を越えると今度は道が下りになってくる。まもなく貯水池が見えてきてその先の急な下り坂をおりると市営墓地のバス停に到着する。信号が少ないので距離の割にはあっという間だ。

施設のスタッフに感謝状の話をすると、部屋に大きなものを置くことには消極的だった。壊したりそれで怪我をすることを心配していた。言われてみれば確かにこの感謝状は小さいとは言えない。伯母の様子を尋ねると伯母が書いたという短冊をみせてくれた。そこには細字のマジックペンで芭蕉や蕪村の俳句が書かれていた。それは確かに伯母の文字だった。達筆は変わっていなかった。スタッフは伯母が時々歩きまわることがあると言った。それでつまづくのだろう。僕は車椅子にはシートベルトはあるのかと聞いた。それは拘束になるのでしないとの答えだった。腰のベルトを軽くしめるだけでもだめなのかと聞いたらそれも拘束だと言われた。四六時中伯母を見ているわけにもいかないだろうから一時的にしてもらっても構わない、それは本人を守るためだと言ったが拘束はしないという答えしか返ってこなかった。

伯母に会いに集会室に行ってみたが、皆と一緒に何かをしていたようだったので声をかけるのを遠慮して再び美術館に行ってみることにした。施設を出て北側の病院の坂を上るとタイル画が見えてきた。それは空の青と森の緑の中に教会がある図であることに気が付いた。この場所を描いているのだ。中に入ろうとするとドアが開かない。どうやら休館日のようだ。美術館というものは月曜日が休みだと思い込んで確認していなかった。まだ次のバスまでたっぷり時間がある。施設に戻ろうかとも思ったが、長らく墓を見ていなかったことを思い出した。今どうなっているかを確かめに墓園に行ってみることにした。

この巨大な墓園は昭和三十年代に作られたもので、当時の急速な都市化で人口が急増し墓地が足りなくなったために造成されることになったという。古い墓をここに移設することはなかったようで、見渡す限りどこも新しい墓石が整然と並んでいる。ここだと思っていたところに自分の家の墓はなかった。この墓園に来るのはあまりに久しぶりだったので正確な場所を忘れてしまっていた。ただでさえ同じような墓石が並んでいてるので間違えやすい。近辺の墓石の名字をひとつひとつ探すはめになった。

結局思ったより一列奥にそれはあった。祖父が植えた椿とイヌツゲが伸び放題で雑草も茂っており手入れが必要な状態だった。小さい方の墓石は半分草に隠れている。今度いつ手入れに来られるかと考えながら墓石を見ていると、大きい墓石に刻んである祖母の法名が小さい墓石に書かれている法名とは違うことにはじめて気づいた。違う人物なのだからあたりまえだが、ここに祖父の二人の妻の墓があることをこれまであまり意識したことがなかった。祖父とその最初の妻との間に子供はいなかったと聞いているが、万一いたならば伯母の相続人になって話が一段と複雑になる。それはいずれ戸籍で確認しなければならないことだった。


いつのまにか父と母は一緒にデイサービスに行くようになっていた。「仲ええな」とまわりから言われるようだが夫婦でデイサービスに通うのは珍らしいことではないそうだ。この施設のサービスは施設長と利用者のお喋りからはじまる。その中で施設長は毎回誰かを指名して「今日は何年何月何日何曜日ですか」と尋ねるらしい。近くにはカレンダーも新聞もあるので指名されたらそれを見て答えればよいのだが、父はいつも当日の日付をあらかじめ紙に書いて持って行き、いつ尋ねられてもいいように机の上に置いている。それに気づいた施設長は毎回父に尋ねるようになったと母は楽しそうに話をした「お父さんはきっちりしてるから」。

父と母はよく最寄りの電車の駅前のスーパーまで買い物に行った。駅は普通に歩いて家から10分かからない距離にある。父も杖をつくようになっていたが歩くのはさすがに母より早い。父は母にペースをあわせず先にさっさと行ってしまい、駅前のベンチに座って母が到着するのを待っている。スーパーでは母は必ず父に何が食べたいかを聞いていた。それでも段々と食事を作るのが面倒になってきたのだろう、平日の夕食は宅配弁当サービスを利用するようになった。老人向けの宅配サービスというのは単に配達員が家に商品を届けるだけでなく、手渡しによって安否確認をおこなうサービスでもあることを初めて知った。

伯母の書類整理はようやく中盤にさしかかっていた。最初のうちはなかなか処分するという決断ができず、シルバー人材センターの会報も重複するものだけを捨ててあとは残していたが、そんな調子ではものは全然減らない。すべての号が残っているわけでもないので思い切って全部捨てるようになってからは抵抗が減って整理が徐々に進み始めた。伯母の現役時代の仕事の資料が大量に残っていたが、クライアントへの説明資料や社内打ち合わせ資料はもはや必要ない。年賀状も書類に交じってたくさんあった。これは広告業界だけあってデザインに凝っているものが多く見応えがあったが、やはり仕事関係とわかるものは捨てることにした。

整理が必要なものは廊下の書類だけではなかった。伯母の開閉式のライティングデスクの中には雑多なものが入っていた。ある引き出しの中には鉛筆とカッターと小銭とクリップと切手と診察券と鍵が混ざっていた。別の引き出しには伯母が担当していた製薬会社の販促グッズが入っていた。そこには薬の名前の入った鉛筆やメモ帳とともにトランプもあった。トランプは未開封で税金の支払証紙が貼られている。昔のトランプには皆この証紙が貼ってあったのだ。会社のコマーシャルソングの小さなソノシートもあった。そこには当時知られていた女性歌手の名前がクレジットされていた。

キャビネットの扉を手前に倒すと中には書類や小物がぎっしりと詰まっていた。その中に一冊の単行本があることに気がついた。昔から二階に書籍と言えるものはほとんど何もなかった。僕は伯母が本を読んでいるのを一度も見たことがない。一階にはかつて全集ブームと言われた時代に伯母が買った新潮世界文学全四十九巻が本棚に眠っていたが新品同様だった。このころ全集はインテリアだったのだ。岩波の古典文学大系百巻は伯母は読まなかったが、僕はこの全集のおかげで古典文学に親しむようになり、それは僕の人生に大きな影響を与えた。この点では僕は伯母に感謝している。

キャビネットの中にひっそり置かれていたその単行本の著者の名前には覚えがあった。それは伯母の兄の長男、つまり僕が会ったことのない従兄だった。この人は大学の先生だと聞いたことがある。本を取り出してみると新品に見えた。内容は著者のフィールドワークにもとづく研究成果が書かれた専門書で素人相手のものではない。伯母が読んでいないことは明らかだった。なぜ伯母がこの本を持っているのだろう。断絶している兄の息子の本を自分で買ったのだろうか。そもそもこの本の存在をどうやって知ったのだろうか。


僕はしばらく仕事が忙しく施設を訪れる機会がなかった。定期的に施設から来る封書には行事の案内や連絡事項とともに伯母の近況も記されていた。たいていは楽しく毎日を過ごしておられますと書かれていたが、時々は気分がすぐれず行事に参加しないこともあるようだった。最近の便りでは、字を間違うことが増えてきましたが指摘すると正しく書き直されますとも書いてあった。次に実家に帰る予定を考えている時に施設から連絡があった。急ぎはしないが伯母のことで一度会って話をしたいとのことだった。わざわざ電話してくるということは何か特別なことがあるのだろう。予定を早めて仕事の休みをとって施設を訪問することにした。

紅葉が美しい季節になっていた。施設に入るといつものように静かだった。この中は外とは別の時間が刻まれているようだ。受付に声をかけると最初に打ち合わせをした部屋に案内され、最初に会った三人のスタッフがやってきた。挨拶するとすぐ話が始まった。聞いてみるとどうやら伯母がしばしば大声をあげたり、時には他人に手をあげることがあるらしい。今のところスタッフが寄り添って話をきけば落ち着くので大きな問題ではないが、今後状況によっては病院での受診を考えたいとのことだった。スタッフの一人が伯母はセンターという言葉をよく口走ると言った。僕はそれはシルバー人材センターのことで、伯母は定年後に長くそこで仕事をしていて伯母の誇りなのだと伝えた。以前ここに持ってきた感謝状も伯母がセンターからもらったものだと説明した。

話が終わって伯母に会いに集会室に行く途中で知り合いにばったり出会った。小学校時代に同じクラスだった同級生だ。僕は地元を離れて久しいが彼は地元に根を張って商売をしており、地域では顔のきく人物だった。彼は自分の母親がこの施設に入っていると言う。小学校時代の同級生とは本人同士だけではなく母親同士がたいてい知り合いだった。僕の母は彼のお母さんをよく知っている。母は当時学校のPTAや地域の婦人会で活動しており、また人と話すことが好きなので知り合いが多かった。僕は伯母のことを手短に説明して、お互いそういう年齢になったねと言った。

伯母は集会室で昼食をとっていた。他の入居者とは離れてひとりでぽつんと食べていた。僕はとなりに座っていつものあいさつと自己紹介をした。伯母の話し方はいつもよりそっけない感じがした。食べるのを邪魔されたくなかったのかもしれない。食べている伯母をみて僕は言った「お姉さん、トマトときゅうりが嫌いやったやろ」「そうや」。すると近くにいたスタッフが声をあげた「そういえばこないだトマト残してはったわ」。僕がセンターの話をしはじめた時に「シルバー人材開発センター」と言うと伯母は即座に僕の間違いを指摘した「そんなん知らん。シルバー人材センターやったら知ってる」「ごめんごめん、そうやそうやった、間違うたわ」。僕はこのスタッフに伯母の言うセンターとはシルバー人材センターのことだと説明した。スタッフはそうだったのかという顔をした。

僕は伯母にいくつか聞きたいことがあったが、いつも伯母を前にすると口にするのをためらった。特に人間関係に関することは尋ねる気になれなかった。伯母の悲しそうな顔が目に浮かぶ。ここは楽しいことを話す場所だ。伯母の食事が一段落するのを待っているうちに、ふとこれまで考えたことのなかった疑問がうかんできた。僕は伯母が働いていた広告代理店の名前をだして尋ねてみた「お姉さん、あの会社で働き始めたきっかけは何やったんや?」。伯母は何でもないことのように即答した「あれはおじさんが紹介してくれたんや」。明確な話し方をしたので驚いた。この話は初めて聞いた。おじさんとは亡くなった祖父の兄弟ということだろうか。祖父の兄弟の話はほとんど聞いたことがない。

今後は伯母が僕に尋ねた「あんたは食べへんのか」「うん、僕はお昼もう食べたわ。ありがとう」「そうかもう食べたんか」。伯母が暴力をふるうことがあるというのはにわかには信じ難かった。さきほどのスタッフが伯母のことを「今日は静かやわ」と意外そうに言った。いつもはそんなに騒がしいのだろうか。僕と話しているから静かなのだろうか。僕はこのスタッフに、伯母が独身で定年まで広告代理店で仕事をしていたこと、それからシルバー人材センターで長らく活躍していたこと、伯母にとって仕事は生き甲斐だったことを話した。いくらかでもこのスタッフと伯母の会話がはずむことを期待して。ふと今の時間を確かめるために時計を見たときに、今日は美術館の休館日であることに気がついた。


父の書斎は二階の伯母の部屋とは階段をはさんで反対側にあった。ここは祖父が亡くなった頃に新しく造った部屋で、当時自分の個室を欲しがっていた弟のために建て増ししたのだった。一階の祖父の部屋の真上に位置していた。クローゼットも押し入れもある洋室で大きな窓が二か所あって明るく、学生が自室として過ごすには十分な部屋だった。本当はこのタイミングで二階にも洗面所が欲しかったのだが、建物の構造上難しいことがわかり断念したのだった。元々平屋だったこの家は二階に水回りを作ることが想定されていなかった。二階に洗面所があったら伯母はずいぶん楽だっただろうと思う。

弟が就職して家を出るとこの部屋は父の書斎となり、絵を習い始めてからはアトリエにもなった。僕は実家に行くと一階の祖父がいた部屋を使った。ここにはかつてゼンマイ式の柱時計があり祖父は何日かに一回ねじでゼンマイを巻いていた。この時計は振り子が左右に振れるたびにカチカチという音を出した。僕はこの音が好きだった。振り子の音に耳を澄ますと線香のにおいを感じた時と同じように気持ちが落ち着いた。しかし神経質な父は祖父が亡くなるとこの音がうるさいと言って時計を止め、いつのまにか取り外してしまった。父は絵をやめたあとは二階に行くことが次第に少なくなり、一階の祖父の部屋で寝起きし一日をすごすようになった。僕は父の書斎を自分の部屋として使いはじめた。

伯母の部屋とは違って父の書斎はいつも整頓されていた。テレビとパソコンと電話があり光回線も引かれていた。部屋には画材とともに水彩画を描いたスケッチブックがたくさんあった。鉛筆によるデッサン画もいくつかあって、父の通っていた絵画教室は本格的なところだったことがうかがえた。小さい本棚には画集や絵画の教科書が置かれていた。パソコンで作るCD-ROMの付いた年賀状の本も何年分かあった。現役時代父あての年賀状は毎年100通近くあり、父もたくさんの年賀状を作っていた。しかし今はもう年賀状を書いていない。

あるとき銀行の行員が実家にやってきた。運用成績の悪い金融商品を解約する手続きに家まで来てもらったのだった。解約は僕が父に勧め、行員も僕が呼んだので僕が父に代わって行員に意向を伝えることで父と話はついていたつもりだったが、話がはじまると横に座った父は前日に自分で書いた「息子の方針は自分も認めています」という内容の文章を紙を見ながら読み上げた。デイサービスにその日の日付を書いた紙を持っていくのと同じだ。自信のないことはあらかじめしっかり準備しておくのは父らしかった。この点では同じ兄弟でも伯母と父とはまったく違っていた。

父は慣れないことをするのは苦手になっていたが、母との日常生活に大きく支障をきたすようなことはないように見えた。母はのんきな性格で、父に少々いつもと違う兆候があってもそんなこともあるだろうとしか思わない。父の神経質なところは母にはしばしば几帳面と見えていた。伯母の認知症も母は医者に言われるまで認識していなかったのだ。僕は実家に帰ると父の様子に気をつけていたが、ある日父が薬を正しく飲めていないことに気がついた。毎日適当に薬を選んで飲んでいるようにしか見えない。父にどの薬を何錠飲んでいるのか聞いてみてもはっきりした答えが返ってこないので、母に言って父の薬は母に管理させるようにした。

この少し前から父は昼間に寝ぼけるようなことがあるらしかった。母は父が何を言っているかよくわからないことがあると言った。母は耳が遠いし寝ぼけは一時的なことなので最初は母も僕もあまり気にしてはいなかったが、ある日の夕方父が僕に突然意味不明なことを言って怒り始めたのでこれかと思った。僕が父に何かをしたと思い込んでるようだが論理が乱れている。それでも数分たつと父は自分がおかしなことを言っていることに気づくようで、話はそこで終わる。たしかに寝ぼけのようだ。そういうことが立て続けに2回あったので僕は父が通っている医院に一人で相談に行った。

この医院は隣の駅の近くにあった。僕は先代には子供のころに診てもらったが、二代目になって場所を移ったので僕がここを訪ねるのははじめてだった。会ったことのないはずの二代目医師は僕のことを知っており、父がお世話になりましたと丁寧な挨拶をされた。きっと母が話したに違いない。僕が父の様子を話すとそれはパーキンソン病の薬の副作用とのことだった。この薬はせん妄を引き起こすことがしばしばあると医師は申し訳なさそうに言った。薬を調整したもらったらその後はせん妄はおこらなくなった。もっとも父は薬をでたらめに飲んでいたのだから、そのせいで副作用がおこって不思議はない。母が薬を規則正しく飲ませるようになったからよくなったのかもしれない。


伯母のライティングデスクのキャビネットから昔の戸籍が出てきた。筆で書かれた古いものだ。交付した自治体が記入した日付は祖父が亡くなって数か月後なので、祖父の遺産相続の手続きのために取り寄せたのだろう。旧民法の戸主を中心とする家制度にもとづく戸籍なので、夫婦を単位とする現在の戸籍の様式とは大きく異なっている。戸主以下32人もの人物が記載されており、戸主の母から曽孫まで五世代にわたっている。戸主は昭和十四年に亡くなってその二年後に長男が家督相続しているのでその時点で新しい戸籍が作られ、この戸籍は除籍簿となったことがわかる。

祖父は戸主の二男と記されていた。戸主は安政三年生まれで子供が九人いる。一番古い年号は戸主の母で天保七年生まれとあるから二百年近く前ということになる。僕は祖父の兄弟を誰も知らなかったが、子供のころ祖父の兄弟という人から毎年お歳暮が来ていたのを覚えている。伯母に広告代理店を紹介したのはこの人だったのだろうか。祖父は大正六年に分家していて、その時点ではまだ結婚したという記録はないので祖父の妻やその子供達が登場するのはこの続きの戸籍だろう。伯母が亡くなるとこの戸籍をもう一度取得しなければならないはずだ。

よく見るとこの戸籍には何か所か抹消されている文字がある。おそらくその部分にだけ紙をはって複写するときに読めなくしたのだろう。多くは氏名の直前の文字なので平民とか士族とかいう身分をあらわす単語だったと推察される。それ以外に庶子や私生児といった文字があったと思われる部分もいくつか消されている。もっともこれは続柄が長男や長女ではなく男や女とだけ書かれていることから消されていても推測できてしまう。本当に何と書いてあったかはこの戸籍をもっと昔に取り寄せたものでも出てこない限りわからない。

それにしてもこの戸籍はなかなか興味深い。明治十九年式戸籍と呼ばれる現在取得可能な最も古い形式ではじまっておりそこには母親を記載する欄がない。途中から明治三十一年式戸籍、大正四年式戸籍と呼ばれる形式に変わっていて親子関係が明確化されている。入籍や除籍の理由は出生、死亡、婚姻、養子縁組、家督相続、分家、認知と32人もいれば一通りそろっている。戸籍が家の権利と義務をすべて背負った戸主を中心に作られていることがよくわかる。一番若い人は昭和十五年生まれとある。この人の子供がすべて亡くなるまではこの戸籍が必要になる可能性がある。それは長ければ次の世紀になるかもしれない。

かつてお歳暮を送ってくれていた祖父の兄弟のことを母に尋ねると、母は昔の住所録を引き出しから取り出して探し始めた。すぐ見つかったその人は僕が聞いたことのない姓をもっていた。戸籍をみると祖父の一番下の弟がこの姓をもつ家への養子縁組により除籍となっている。おそらく男子のいない家を継いだのだ。長男が家督を相続するまでに二男と四男は分家、五男は養子縁組、三男は早逝、長女と二女は婚姻、三女と四女が早逝とあるが明治時代の田舎の家としては典型だったのだろう。早逝者が三人もいるがこれも時代を反映している。長子相続だった時代二男は苦労が多かったという話を聞くが、祖父はどうだったのだろうか。


次に施設から電話がかかってきたのは年があけてしばらくした時だった。伯母の状態がよくなく、施設では手に負えなくなりつつあるので精神科の診察に付き添ってほしいとのことだった。言外に入院して治療をしてもらいたいという意図が伝わってきた。指定された精神科クリニックは町中にあり、母が昨年入院した病院のすぐ近くだった。このクリニックは施設の南側にある精神科病院と同じ法人が運営しており、入院の前にまずここで診断をうけるのが順序らしい。僕はふたたび仕事の休みをとり新幹線に乗って関西に向かった。

約束の時間の少し前にクリニックに着いたがまだ伯母は来ていなかった。この建物はきれいで最近できたもののように見えた。待合室にはテレビがあるもののやや殺風景だったが不要なものがないとも言える。ほどなく車椅子に乗った伯母と施設のスタッフがやってきた。このスタッフは、いったん施設に戻るので診察と会計が終わったら連絡してほしいと告げて建物を出た。待合室は僕と伯母だけになった。僕は伯母にこんにちはと挨拶をしたが、いつもの自己紹介はあとにすることにした。診察を待っている間伯母に何回か話しかけてみたが、表情に乏しく口数が少ない。

車いすを押して診察室に入ると話は通っているようで、医師は伯母に認知症のテストをしはじめた。横で自分もテストを頭の中でやってみたが、結構難しいものがある。いくつかのものを見せたあと、それを隠していま見たものの形と色とを言わせる質問は自分も記憶があやふやで正しく答えられる自信がなかった。段々自分も大丈夫かと心配になってきた。伯母はひとつもできず、そのうちに「何でこんなことすんのや」と怒りはじめた。この怒り方は父に似ている。医師はテストを中止し伯母に「ここはおうちですか、病院ですか」と尋ねた。伯母は大きな声で「おうちー」と叫んだ。

会計を待つ間、伯母は待合室にあるテレビを静かに見ていた。会計を終えて施設に連絡してしばらくすると、さきほどとは別のスタッフがやってきて伯母とともに施設に戻っていった。僕が帰り支度をしていると診察室から伯母を診た医師が出てきたので少し立ち話をした。医師は入院させたほうがみんなが楽になるでしょうと言った。そうしますと僕は答えた。僕は施設に連絡し入院の手続きをすると伝えた。施設からは病院に連絡しておくのでできるだけ早く手続きをしてほしいと言われた。入院期間が三か月を超えると施設は別の人を入居させことになり、退院後すぐには施設に戻れないかもしれないので戻るつもりなら入院は三か月以内にとのことだった。

僕はいったん実家に戻り、それから施設の南にある精神科医院に向かった。市営墓地のバス停からバス道を戻り、施設を左手に見ながら坂を少しあがったところにその入口はある。数台分の駐車スペースの先に正面玄関がある。かなり古く見える建物だった。受付で伯母の名前を告げると話は通っていた。クリニックもここも施設と一体化しているように思えた。診察室に入ると若い医師がいた。僕は伯母と僕との関係とこれまでの経緯を簡単に説明した。入院の日は明日でもよいとのことだった。施設からは急がされているし、僕も今回の実家滞在中に手続きを終えてしまいたかったので明日入院と決めた。この医師は、明日は入院を正式に承認する資格をもつ別の医師が対応すると言った。

受付で入院手続きについて尋ねると、医療保護入院になるので家族同意が必要でこの同意ができるのは三親等までの親族だと言われた。僕は甥なので僕の同意でよいかと尋ねたら甥はだめだという。言っていることが矛盾している。あとで調べたら家族同意ができるのは民法で定める扶養義務者であって、それは原則二親等以内であった。要するに僕ではだめで父でなければならないということだ。入院を明日と決めてしまったので、明日の朝父を病院に連れて行って説明を聞き同意書に署名してもらわないといけない。これは気の重い仕事だった。すんなり父が病院に行くとは僕には思えなかった。


実家では両親はいつもとちがう宅配弁当をとっていた。業者を変えたのかと聞くと飽きたので別のものにしてみたとのことだった。たしかに宅配弁当は毎日素材は変わるが味はどれも同じように感じる。塩分が控えめなので食べた気がしないという気持ちもよくわかる。宅配弁当にしてからは米を炊くこともなくなった。食器棚にはパックのごはんが積まれている。相変わらず母は父の世話をやき続けていたが、母の腰痛もあり父が母の手伝いをすることが増えてきた。母は父が最近皿洗いと床掃除をしてくれると喜んでいた。

食事が終わってから僕は母に伯母の入院の話をした。父に病院に行って家族同意の署名をしてもらわなければならない。まず母が父にそのことを話したが、案の定父はごねた「なんで自分がサインせなあかんのや」。僕は事情を話したが父は譲らない。自分はそんなことはしたくないと言う。押し問答を続けるうちに、どうやら父は署名をすると自分が伯母の面倒を見なければならなくなると思いこんでいるような気がしてきた。理屈で物事を理解するのは難しくなっているようだった。僕は父に、サインはしなくていい、僕の横で座っているだけでいいから病院についてきてほしいと言ってようやく病院に同行することを約束してくれた。

翌朝病院に電話をして、父は軽い認知症なので同行する父の了承のもとサインは僕がすることでもよいかと尋ねたらそれでも構わないという。父と僕はタクシーで病院に向かった。料亭跡を越え、自然公園を越え、寺を越え、広大な貯水池と市営墓地が見えてきたあたりで右手の病院の門をくぐる。あっと言うまだ。駐車場には送迎バスが停まっていた。ここまでは順調だったのだが、受付をしてしばらくお待ちくださいと言われてからが長かった。医療保護入院となると手続きが色々あるらしく、何回も受付に呼ばれて伯母のことを尋ねられた。しかもひとつひとつにかなり時間がかかった。

ようやく診察室に入ると、昨日とは別の中年の女性医師がいた。僕は自己紹介をして伯母との関係を説明し、伯母はずっと独身で子がなく長らく僕の母が伯母の面倒をみていたが今は僕がみているという話をした。今は関東に住んでいて月に1回程度こちらに戻ってくる生活をしているとも言った。この説明をするのは何回目だろうか。医師は穏やかでかつ率直な話し方をする人で好感が持てた。入院の期間を尋ねられてここが精神科病院であることをあらためて認識した。僕は「三か月で施設に戻ることが目標です」と答えた。医師はできるだけ薬は使いたくないと言った。僕は全面的に賛成した。三か月で施設に戻る目標を共有し、なるべく薬に頼らない治療を行うことで合意した。父は僕の横で黙って話を聞いていた。

またしばらく待合室で待たされた。まだ家族同意の署名をする場面に至っていない。昼までには実家に戻るつもりだったがこの分では無理そうだ。段々父がいらいらしてくるのが横にいてわかる。悪いパターンだ。もう帰ると父が言い出さないかと心配していると、次は三階に案内すると言われ病院の職員とエレベータに乗った。このエレベータを使うには四桁の暗証番号を押す必要があるようだった。そのためのボタンが付いている。三階に到着すると西側のエリアに向かった。そこは常時施錠されており鍵を使って開けるようになっていた。父と僕は鉄の扉の中に入った。

中の廊下を進むとかなり奥の方に三畳くらいの小さな部屋があり、そこに入るように言われた。中には若い医師がおりここで家族同意に関する説明をうけた。丁寧な説明だったがイライラしている父は医師に対して、ここでサインをしたら病院の責任をこっちに押し付けられることはないのかと食ってかかり始めた。今度は父はサインをすると伯母が実家に戻ってくるかもしれないと思っているように聞こえた。医者は落ち着いて「そんなことは絶対ありませんよ」と言ってくれた。認知機能の低下した年寄りには慣れているのだろう。考えてみればそれが本業なのだから当たり前だ。僕は何も言わず父にかわって署名をし押印した。

まだ手続きはあるようだったがもうサインをしなければならない書類はないとのことだったので、待合室に戻ったらタクシーを呼んで父を先に返した。父をタクシーに乗せるため外に出たときに、建物から張り出した喫煙室があることに気が付いた。窓から中が見える。病院の職員らしき白衣を着た男女がたばこを吸っていた。きっとストレスが多いのだろうと思った。ここの仕事は誰にでもできるものではない。手続きがようやくすべて終わって施設に連絡すると、すぐ伯母がスタッフとともにやってきた。スタッフは僕にありがとうございましたと言い、受付に声をかけて二言三言言葉を交わすとすぐに車いすを押してエレベーターの方に進んでいった。病院の職員のように慣れた様子でエレベータの暗証番号を押し、伯母とともにエレベータに乗り込み三階へと向かって行った。