伯母の話 中編 その2

伯母の部屋をあらためて見渡してみる。もう伯母がここに戻ることはない。四畳半の方は布団は片づけられ散らかっていた書類もなくなり、残っているものはテレビと洋服ダンスとライティングデスクだけになった。廊下の書類はずいぶん減ったがまだ一番奥の白い衣装ケースには届かない。廊下の突き当りの壁には額に入った絵が飾られてる。人形の絵だ。確かこれは伯母の知人が描いたもので、伯母が展覧会に招待されたときに買ってきたものだ。この場所に飾られているということは買ったのは何十年も前ということだ。僕は何だかこの人形に見られているような気がするのでこの絵を取り外したいのだが、今のペースでそこまで到達するにはもうしばらく時間がかかる。

床の間がある六畳の方は手つかずに近かった。散らかっていた衣類が衣装ケースにしまわれただけで、ものは何も減っていない。この部屋に何が残されているかを僕はまだ知らないが、衣類や小物が中心で書き物はあまりないように見える。ここに手をつけるのは廊下が終わってからだ。しかしライティングデスクの中を見始めたら予想外に色々なものが出てきて廊下の方は中断してしまっている。それでも今のところ整理を特に急ぐ理由もない。実家に行った折に時間と気持ちに余裕があれば二階にあがり伯母がいた埃っぽい部屋に入る。軍手とマスクは必須だ。

伯母のライティングデスクにははがきや封書がかなり残されていた。引き出しに入っていたりキャビネットの中の書類に紛れていたり、例によって整理されてはいなかったが、廊下の床に置かれた書類の束の中に紛れているものよりは伯母にとって大切だったのだろう。五円葉書が何枚かあった。今の葉書よりひとまわり小さい。この家に引っ越して来たころのものだ。未使用のものもある。伯母の友人から来た手紙や葉書が何通かあるが、これも古いものだ。新しいところでは伯母の定年退職の挨拶状があった。「数えてみれば三十年あまり、まさに私の人生の大半はここにあったという思いでございます」と印刷されている。その通りだと思う。

ある封筒には赤字で「重要」と書かれていた。それは伯母から借りたお金の返済が遅れていることを詫びる借主からの手紙だった。伯母は知り合いにお金を貸していたようだ。同じ借主からの手紙が4通あったがいずれも詫び状で、文面から細かい経緯は読み取れなかったが伯母は4年の間にこの人物に何回か追加で貸していた。そのうちいくらかは返済されたようだったが、まだ少し貸金が残っているところで手紙は終わっている。その後完済されたのだろうか。仮にそうでなかったとしても、まあいい。大きな金額でもないし、もう伯母は今あるお金で十分過ごしていける。これ以上のお金は必要ない。

祖父の遺言書らしき封筒が二通あった。いずれも封筒の表面には遺言書と書かれていた。どちらも開封されており、中には遺言が書かれた和紙が一枚ずつ入っていた。それぞれ毛筆で書かれてはいたが、一通には押印がなくもう一通には押印があるものの推敲のような書き直しがあり、訂正印がないので自筆証書遺言としてはどちらも明らかに無効なものだ。これらは下書きだったのかもしれないが、封がされていたものを誰かが開封したように見える。いずれにしても公正証書遺言を作る前のものだろう。文面は共に土地と家屋の相続者を指定するものだったが、その内容は異なっていた。

二通のうち古い日付の方には遺産を父にすべて相続させると記されており、後の日付の方には父と伯母に相続させるとあった。大違いだ。祖父は最初のうちは自分の土地と家をすべて父に相続させるつもりだったのが、のちに考えを変えて父と伯母の共有にしたように見える。伯母の机にあったものだから伯母は内容を承知していたのだろうが、父はこのことを知っていたのだろうか。しかし父と伯母の共有といっても共有割合が書かれていなかった。この段階では決めていなかったのだろうか。もし父がすべてを相続していたらその後の伯母との関係は全然違ったものとなっていただろう。

それにしてもこれらの遺言書らしきものに書かれた文字はお手本のようなきれいな楷書だ。仍而如件という古風な表現で締めくくられてはいるが、祖父が書いたものとは思えなかった。僕の記憶では祖父は年を取ってからは手が震えるので字はうまく書けなかったはずだ。伯母の筆跡ではないので誰かに代筆を頼んだのかもしれない。伯母はフォーマルな書き物は字の上手な人に書いてもらっていたと聞いたことがある。僕から見れば伯母は十分達筆だが、昔は代筆はよくあることだったようだ。でも下書きに代筆というのもおかしな話だ。いろいろ憶測はできるが、いずれにせよその後公正証書遺言が作成され、すでに遺産分割はなされているので終わったことだ。


次に実家に帰る機会に伯母に会いに病院を訪問した。診察室には伯母の入院の日に会った医師がいた。話をきくと経過は順調のようだった。医師は穏やかな話し方をする人で、この人なら身内のことを語ってもよい気がした。僕は前回連れてきた父が実は伯母と不仲であると言った。それで母が苦労したこと、僕がそれを見ていられなくなって今は自分だけが伯母をみていることを話した。昨年の春に特別養護老人ホームに入居して以来伯母に会った親族は自分しかいない。医師は時々うなずきながら黙って話を聞いていた。僕は話しながら、ここではその程度のことは苦労のうちには入らないのだろうと思った。伯母に会いに行っていいかと尋ねたらぜひそうしてくださいと言われたので僕は三階に向かった。

受付でエレベータを呼ぶための四桁の番号を教えてもらって三階に上がり、西側の入り口に向かった。その先は重度認知症患者のための閉鎖病棟だった。父と家族同意の署名をしに来たところだ。今はここに伯母がいる。インターフォンで面会に来たと告げて鍵を開けてもらい中に入った。前回は気が付かなかったが入ってすぐ右側に少し広いスペースがあり、お年寄りが何人か集まって看護婦と体操か何かをしていた。デイサービスやショートステイと同じような明るい雰囲気だった。しかしその様子を見ていると、伯母は施設では重度と思われていたかもしれないが、ここではむしろ軽度の部類だと思った。

このグループの中に伯母はいなかったので伯母を探そうと思い、持って入った小さなスーツケースを壁際において奥に進んだ。今回は自宅から直接病院に来たので荷物をもっていたのだった。二三歩進むと看護婦が飛んできて荷物は絶対手放さないように、でないと勝手に開けられてぐ中身をぐちゃぐちゃにされますと警告された。僕は「このスーツケースは結構重たいですよ」と言ったら「みんな意外と力はあるんです」と即答された。そうなのか。でも僕にはそんなことがおこる雰囲気はまったく感じられなかった。

伯母はすぐ近くに一人でいた。僕は伯母に挨拶したあと自分が座れるところを探し、そこまで車椅子を移動させた。世間話をしている限り受け答えはできるので誰も重度認知症とは思わないだろう。僕は伯母の兄弟を一人ずつあげて伯母の記憶を呼び起こそうとした。そして伯母の現役時代の仕事や、シルバー人材センターでの活動で僕が知っていることを伯母に伝えた。伯母は僕が何かを言うたびに「ああ、そうそう」と言った。伯母は自分から昔のことを話すことはなかったが、僕の話を聞いた時の伯母の表情や声から一番下の弟と仲がよかったことははっきりわかった。だから僕のことをこの弟だと思っていたのだ。

病院を出たあと、天気がよかったので美術館に行ってみることにした。今日は休館日ではないはずだ。明るいタイル画の建物の入口の自動扉は当たり前のように開き、僕は中に入った。受付には誰もいなかった。奥でテレビかビデオかで時代劇を観ている人がいる。僕はこんにちはといった。観劇していた男性が出てきたので入館料を支払いスーツケースを預かってもらった。ここは初めてですかと聞かれたのでそうですと答えたら丁寧に館内のつくりを教えてくれた。建物の中は静かで暖かかった。僕以外の訪問者はいないようだった。展示は4階まであるという。エレベータに乗り4階にあがった。

展示物はオーナーの個人コレクションのようだった。中国と日本のものを中心に工芸、陶磁器、書画など、素人目にも価値あるものが集められていることがわかる。今では輸出入や取引そのものが困難なものも数多い。これだけのものを収集するのにどれだけお金と時間がかかったのだろうかと思う。きっと資産だけではなく太い人脈があるのだろう。建物はバリアフリーで通路の広さも十分確保されている。休憩室はセルフサービスで飲み物が無料で飲めるようになっていた。テラスからの眺めもよかった。外を見ながら今日は悪くない日だったと思った。


伯母のライティングデスクの引き出しの中に、「蘆田様」とだけ表に大きく書かれた封筒があった。この名前は聞いたことがない。封はされておらず、中には達筆で書かれた便箋が二枚入っていた。教養ある女性の書く文字だ。おそらく下書きか写しなのだろう。文末に伯母の姉の署名がある。六人兄弟の一番上の長女だ。伯母はよく「姉ちゃんは字が上手やったからうちが子供のころよう習字を教えてもろた」と言っていた。それにしてもほれぼれする筆運びで、かなは縦書きすべき文字であるということがよくわかる。そしてそこには、これまで母からしか聞いたことがなかった祖父の長男のことが書かれていた。

三月とはいえまだまだ寒い日が続いております
お元気でお過しの事と存じます
先日は父の死に際しましてはわざわざおまいり下
さいまして有難うございます
長男の事に関しましてはきょうだい達も生前の父
も口に出したことはありませんでした
あきらめ切っているのでしょう
然し老いてゆく父の心の奥の寂しさ残念さを
思うと長女として一人の親として私はたまらなく
気の毒になってまいりました
せめて父の霊よ安かれと祈らずにはいられない
のでございます
蘆田様のお噂は生前の父より時々聞かされて
おりました
きょうだいと共に皆々様の御心づかい誠にうれしく
心より感謝いたしております
皆様にはどうぞよろしくお伝えくださいませ
妹もぜひ一度お伺いしたいと申しておりますが
先づは書面にて失礼申し上ました
時節柄御身御大切になさいませ
              かしこ

そう、兄弟の誰もこの長男のことを口に出したことがない。甥である僕は関係ないと思われていたのかもしれないが、そうはならなかったのだ。母に蘆田という人を知っているかと尋ねたら即座に覚えていると言った。長男の妻の姉にあたる人らしい。祖父の葬式に長男夫妻は来なかったが蘆田という人が線香を持って後日やってきたという。母はよく覚えていた。確かに長男の妻ではなく妻の身内が来たというのは記憶に残ることだろう。この手紙の文面からも、この手紙を伯母が残していたことからも、伯母とその姉は仲がとてもよかったように思える。伯母と父の不仲を見て育った僕には伯母が自分の姉や一番下の弟と仲がよかったというのはぴんとこなかったが、同居していた伯母と父の関係は特別だったのかもしれない。


伯母は予定より早く二か月ほどで退院となり施設に戻った。退院の連絡をもらって病院を訪れた。伯母が施設に入居してからちょうど一年が経っていた。伯母は認知症がよくなったわけではないが、落ち着いたようで顔色もよく安心した。僕は主治医にお礼を言った。やはり閉鎖病棟に入院している患者の中では軽度だったようだ。病院には治療という目的がある。目的があるからそれに向けて適切な手段を選ぶことができる。僕は伯母が施設に戻ってふたたび穏やかな日々を過ごせることを期待した。僕は主治医に伯母の話をした。大手広告代理店でクリエーターであったこと、管理職にもなり定年まで勤めたこと、その後友人と小さな会社を作ったこと、シルバー人材センターで編集の仕事を十五年していたこと、そして伯母は見栄っ張りで気の強いところがあるが、だからこそこれだけのことができたのだと思うと僕は話した。

病院を出たあと再び美術館に立ち寄ってみた。受付には最初に訪問した時とは別の係員がいて、ここは初めてですかと聞かれた。初めて来る人が多いのだろう。僕は「少し前に初めて来てとても気に入ったのでまた来ました」と答えた。「そうでしたか。どうぞごゆっくりなさってください」。僕は再びエレベーターで4階にあがった。今回は時間に余裕があるのでゆっくり見てまわった。やはり立派なコレクションで見飽きない。ある作品の説明に、これが今中国にあったら国宝級で故宮博物館に入るとあったが、あながち誇張でもないように見える。2階まで見て休憩室でお茶を飲んでいるときに、この美術館がごく最近建てられたものであることを知った。どうりで昔は気が付かなかったはずだ。

休憩室には小さな本棚があり中には何冊かの書籍が置かれていた。その中に実家の最寄りの鉄道駅周辺の昔の写真を集めた大型本があった。非売品のようだ。この地域一帯は大正時代に住宅地として開発されたのがはじまりで、駅周辺は大正から昭和の初めにかけて行楽施設として大変栄えた。全盛期は遊園地、映画館、劇場、百貨店、料亭、温泉旅館、そして動物園もあったらしい。しかしその繁栄は短命で、昭和にはいってしばらくすると衰退してしまう。写真をみていくと僕が子供時代に見た記憶のある特徴的な形の洋館風の建物があった。そのころすでに古くて薄暗く、僕たちはお化け屋敷と呼んでいた家だ。取り壊されたのがわずか三年前だと知って驚いた。

今の駅周辺はどこにでもある静かな住宅地になっていて当時の面影はほとんど何も残っていない。池がその一部であった遊園地は小学校になっている。これは僕が通った小学校で、入学当時は校舎の建設中だった。当時の地図を見ると池は今よりかなり大きかったようだ。バス通りにあった高級料亭の跡地は今はマンションになっており、その門構えだけが近くにひっそり残されている。昔の写真をみると敷地内に渓谷と言える風景があり、庭園というスケールではなかったことわかる。別の料理旅館は一旦なくなったが、最近同じ名前の日本料理店が跡地にできて有名になっている。僕が子供のころに来客があると伯母や母が寿司の出前を頼んでいた料理店は二十年位前まで続いていたが、今そこには宿泊施設のように見えるモダンな建物が立っている。調べてみると若者向けのシェアハウスだった。

実家のすぐ近くには住宅街にしてはやや場違いなビジネスホテルがある。ここは元温泉旅館で僕が子供のころはかまぶろと呼ばれていた。このことを知っている人はもうほとんどおらず、その事が書かれたものはどこを調べても出てこない。今は小さな家庭的なホテルといった趣があるが、昔は今よりかなり広かったはずだ。その頃の敷地の北半分は今は民家になっている。このあたりは傾斜地なので北側は今ホテルがある南側よりかなり高いところにある。城塞のように巨大な塀に囲まれまわりを見おろすその民家にはかつて住人がいたが、空き家になってかなりの年月が経つ。ここが温泉旅館になる前は誰かの別荘だったという話を聞いたことがある気がするが、確かなことはわからない。


それからしばらくは静かな日常が続いた。伯母も穏やかに過ごせているようで安心していた。梅雨がはじまり段々と蒸し暑さが感じられるようになってきたころに施設から電話がかかってきた。今度はいつもとは別のスタッフだった。初めて聞く声だった。最近伯母を担当するようになったらしい。伯母が暴れるのですぐにでも話をしたいと言う。かなり切迫しているように聞こえた。前回伯母に会ったときにはそんなに状態が悪いようには見えなかった。退院から三か月しかもたなかったのかと思いつつ僕は新幹線に飛び乗り施設に向かった。

施設での打ち合わせには電話をかけてきた新しいスタッフと以前から伯母を担当してくれているスタッフの二人がいた。新しいスタッフは伯母が他の入居者に迷惑をかける状態なのですぐにでも病院に入れてほしいと訴えた。一方でもうひとりのおそらくベテランのスタッフはそこまでするほどでもという感じだった。スタッフで見解が分かれている。それはそれで正直でよいのかもしれないが、こういう場合僕はどうすればよいのかわからない。その場では病院と相談して薬を調節してもらいながらスタッフが伯母をより細やかにフォローするということで話がおさまった。伯母の様子を見ようと思ったら今は寝ているとのことだったのでその日はそのまま施設をあとにしバス停へと向かった。

帰りのバスが寺にさしかかったころ、ふと、昔この寺に伯母と初日の出を見に行ったことを思い出した。僕が中学生か高校生のころだ。当時実家では除夜の鐘をきいたあとに家族で近所の神社に初詣に行き、帰ってきたら朝遅くまで寝てしまうのが普通で、初日の出を見に行ったことは一度もなかった。何がきっかけだったのかは忘れてしまったが、その年は元旦の夜明け前に伯母と二人で家を出発し寺まで行ってその裏山に登ったのだった。人がたくさんいて見晴らしのいいところは混雑していた。この山は小学生が遠足で来るところなので家族連れも多かった。しかし当日は曇っていて残念ながら初日の出を見ることはできなかった。

その日だったか別の時だったか、やはり正月に実家のすぐ近くのホテルの中にある喫茶店に伯母と2人で入ったことがある。昔かまぶろと言っていたところだ。入ってみると正月価格なのだろう、メニューに書かれた値段が驚くほど高かった。伯母は頼んだコーヒーを飲み終わってから店員を呼んで不味いと言い始めた。僕はきっと値段が伯母の味覚に影響を及ぼしているのだと思った。店に文句を言うのは僕は父で慣れている。行列で待たされて文句を言うより不味いという方がまだ筋が通っているくらいだ。仲がよかろうが悪かろうか伯母と父は兄弟なのだ。自分が何を頼んだのか覚えていないが、店の支払いは伯母なので僕は美味しくいただいた。

それから何年かたって僕が大学生になってしばらくしたころ、伯母に頼まれて何人かの友人を伯母に紹介したことがある。ある外食企業に関するインタビューに応じてくれる学生を伯母は探していたのだ。その会社は高級なイメージがある食品を安価に提供することで知られており、当時急成長していた。伯母はこの企業の食品の購買層を若者に広げるための広報戦略にかかわっていた。今思えばこれは伯母の定年退職直前の時期であり、もしかすると最後の仕事だったのかもしれない。そんなことを思い出しているうちにバスは自宅近くのバス停に到着した。


ライティングデスクの中には伯母の姉が書いた手紙がもう一通あった。この封筒には宛先が書かれている。住所は法人で受取人は「初瀬様」とある。この名前も聞いたことがない。封筒は厚みがある。中には5枚の便箋が入っており、やはり流れるような筆致で文章がつづられていた。これも長男との確執に関する内容だ。かなり具体的な記述がある。鉛筆で書かれており推敲のあとがみられるのでこれは下書きだが、それだけに伯母の姉の感情が直接的に表現されている。

前略 先日は御多用中大変御面倒様に存じました
弟へのおことづけを頂きまして早速と父に申しましたが父は「こちらから出向いて行く必要はない 又わしの代理として行く人間は一人もない 話があればわしが会う」と申して居ります 実際のところ以前にも叔母が行って呉れまして大変な侮辱を受けたと涙して居りました 私と致しましても直ぐ下の弟が長男として我が家の或る時期を懸命に働き支えてくれたことを絶対に忘れるものではありません
妹や弟達も同様です 兄のしてくれた数々に対しましては多大の尊敬を以て各々出来得る限りの協力を惜しまぬつもりで居りました
然し三十四年以降よりの父やきょうだいに対する絶縁状なるものそして八日附の書状にいたりましては 何とも云い難い行為だと思います 特に妹に対しての「横領の首謀者」というのは如何なる証據を以っての云葉なのでしょう
母の死後頑固な父と起居を共にし父及び若い弟達の心の支えとなり物質的に精神的に出来得る限りの支援を現在まで続けてくれたのは妹なのです 二番目の弟も順境ならずといえどもよく耐えて父を助けてくれました 私は姉として弟に向かってこの事実をはっきり傳える事が出来ます
長男として「よくやってくれた」という云葉が有っても不思議ではありません
妹は「和解の道なし」と憤懣をぶちまけて居ります
それまでは何時かは和解出来る日があるかも知れないと考えて居りましたが弟妹達の勤務先へのかゝる書状を送ったという卑劣な行為は断じて許せぬものがあります 弟に対する感謝も尊敬も今や救いなき絶望として私達にある決心をさえさせずにはおきません 親きょうだいを辱しめることは結局自分自身の価値を下落させ愛する子供たちをも辱しめること必定の事と考えるものです
家を賣った金に対しても私達きょうだいには何の関係もないことです
父が父名義の家を自分の意志で賣ったという事だけです
特に私などは賣るという事実を知ったのは随分日を経てからのことでした
一厘と云えども私達は貰った覚えがありません 又親の生前中に子供がその金を兎や角なすべきでないと考えて居ります
あの金はこれから父が住むべき家を買い老後の金として父の意志に委ねられるべきものと考えて居ります
云うべき事あれば堂々と男らしく父の面前で話し合うべきと思います 私達の知らない事で父の知ってゐる事もあるやに聞いて居ります 父は何時でも話しに応ずると申して居ります
法的にしろどのような方法にしろ私たちには受けて立つ覚悟と決心を持って居ります やましい事は一切ありません
父は「わしは年を取って何時死んでもよい身体だからとの様な事もやりかねない子供達の為にそれを控えているのだ」とも申して居ります
貴方様には誠に御迷惑の事とお察し致して居りますが老先短い父の生活の平安を願い 私達六人のきょうだいのため又私達の周囲の人達にもよりよき道あらばと考えましてお会いさせて頂いたのでございます
右の様な事情でございますので何卆宜しくご賢察の程願い度く存じます
この手紙このまゝ弟にお示し下さいまして結構に存じます
先ずは右御通知にまで申上ます

以前祖父たちが住んでいた持ち家の権利でもめていたように見える。祖父がその家を勝手に売ったことが長男は気に入らなかったらしい。しかし売った金で買ったのがこの実家だ。ということは長男はこの実家の権利も主張していたのだろうか。そうでなくても長男は伯母の相続人の一人だ。絶縁しようが相続人は相続人だ。伯母の遺言書がなかったら、伯母の死後この家の権利のいくばくかをこの長男がもつことになる。もっとも長男はしばらく前に亡くなったらしいので、今だとその子供たちが相続人になっているはずだ。それは話が簡単になったということなのかより複雑になったということなのかわからない。

昭和三十四年というのは祖父がこの家を買った時期の数年前にあたる。ということは確執は家の売買のずっと以前からあって、家を売ったというのはその中での決定的な出来事ということなのかもしれない。長男へのおことづけがいかなるものであったかはわからないが、伯母の姉がそれを快く思っていないのは明らかだ。文面からは向こうから接触があってこちらから出向いて行ったように読める。淡い希望をもって行ってはみたものの、話はかみあわなかったというところだろうか。

母に初瀬という人を知っているかと尋ねたら長男の妻の妹だと即答した。今度は妹だ。母は何でも知っている。伯母から聞いていたようだ。父は母にも長男のことをほとんど語らないらしい。もちろん母はこの確執の当事者ではないが、当事者でないからといって関係者でないとは限らない。母は立派な利害関係者だ。手紙にはかつて伯母がその父と三人の弟たちを物質的に精神的に支援していたとある。確かに伯母には安定した収入があったから長男とともに家族を経済的に支えていたのかもしれない。あとになって長男の葬式には兄弟で伯母だけが行ったと母から聞いた。この時にはすでに伯母の姉は亡くなっていたのだった。そして伯母は長男の息子の本も持っていた。きっと伯母は絶縁宣言後も長男とつながりを保ち続けようとしていたのだ。そんな伯母のイメージは、僕が子供のころから見てきた伯母とはずいぶん違ったものだった。

この手紙を見る限り、話がこじれてからは長男が一方的にエキセントリックな行動に出ていたようだが、これは片側からみた風景だ。長男には長男なりの言い分があるのだろうとも思う。三人の弟が何も言わないのは長男に何か引け目でもあるのかもしれない。そしてもう一通、昭和三十四年の消印がある伯母宛の封筒がキャビネットの引き出しに残っていた。これは本当に投函された書留便で親展と赤字で書いてある。祖父がこの家を買う前なので宛先は以前の住所だ。この封書はそこからこの家に持ってきたということになる。差出人は長男だった。伯母宛ての絶縁状だったのだろうか。この手紙に横領の首謀者と書いてあったのだろうか。しかし封筒には何も入っておらず空だった。その中身はどこを探しても出てこなかった。


その後も伯母の状態は少なくともこの新しいスタッフにとっては好転していないようだった。本格的な日本の夏がやってきて日射病という言葉が毎日のようにニュースで聞かれるようになった頃にまた施設から電話がかかってきた。あの新しいスタッフだった。とても困っているらしい。何とかしてもらいたいと強く言われた。これが施設としての統一見解になったのかどうかわからなかったが、このスタッフは伯母を毎日一番近くで見ているのだろう。僕自身は伯母の暴力的な行動をいまだに見たことはないが、仕方がない。もう一度入院させる方向で検討しますと返答をした。

僕は入居の時から伯母を担当してくれているもう一人のスタッフに電話をかけ、伯母の様子と新しいスタッフからの要請についてどう思うか尋ねてみた。このスタッフの見解は以前と変わっていなかった。要するに緊急を要するというほどのことはないけれど、手がかかることもあるといったところだった。例えば夜中にほかの入居者を起こしてまわるらしい。これはよくわかった。伯母が実家の一階で寝起きしてしていたころ、寝ている母に夜中でも頻繁に話しかけるので母が困っていたのだ。今は睡眠薬を飲んでもらっているとのことだった。それでいい。僕は「入院の方向で検討するが緊急ということではないと理解したので少し時間をいただきたい」と言って了解をもらった。

入院となると家族同意のために父をまた説得しなければならない。今度もすんなりついてきてくれるとは限らない。病院に電話をして、父をそちらに連れて行かずに書類を持ち帰ってサインするのでもよいかと尋ねたてみら、郵送になるので少し日数はかかるがそれでもよいという。それならばハードルは下がりそうだ。僕は近々実家に行って父にじっくり説明して納得してもらおうと思った。これが2回目ということは3回目があるかもしれないのだ。父に理解してもらえるか正直心もとなかったが、できることなら説得はこれが最後にしたかった。

次に実家に戻った時は父を説得するつもりだった。行ってみるとあらためて父も母も歳をとったと思った。今はふたりとも介護ベッドを使っている。もっとも二人とも電動の機能は何も使ってないので介護ベッドである必要はないのだが、ベッドでないと立ち上がるのがつらいと言う。外に出ることが少なくなり家では一日中テレビがついている。父はスポーツ番組がお気に入りでスポーツならば何でも見ていた。かつて祖父はこの部屋でルーペで新聞をよく読んでいた。時代劇が好きで水戸黄門が印籠を見せて正体を明かす場面では「やった、やった」と手をたたいていた。母は父の影響でスポーツ番組もよく見ていたが、推理ものが好きで毎日どこかのチャンネルで殺人事件の犯人を追い詰める刑事や探偵のドラマを見ていた。母は相変わらずしょっちゅう父の部屋に顔を出して何やかやと世話をやいていた。

夜に父に話をするタイミングを見計らっていたら、父がなんだか歩幅の狭いちょこちょこした歩き方をしていることに気が付いた。そのうちにいつもより早く寝てしまって話すタイミングを逸してしまった。すると何だか気がぬけてしまって、まあ次回でいいかという気になった。伯母の状況が緊急というほどでもなさそうだという安心感もあって僕はその翌日自宅に戻った。せっかく夫婦二人になって安定した毎日を過ごしているところにまた波風立てるのも正直気が引けた。ましてや父に長男のことを今さら聞く気にはなれなかった。伯母や父を見ていると昨日と同じ今日、今日と同じ明日が安定をもたらすのがよくわかる。歳をとると変化に弱くなる。変化がなくて退屈だと思うのは若いからだ。


母から電話がかかってきたのはそれから数日たった朝、仕事をはじめて間もない時間帯だった。この時間に電話がかかってくることはめったにない。それはよくない便りであることを意味していた。電話をとると母が「朝はようからごめんな。あんまり早かったからちょっと待ってから電話したんや」と言った。僕は母の次の言葉を待った。「お父さんがトイレで倒れてたんや」。今日の早朝にトイレで倒れていた父を発見して救急車を呼んだという。父の腕が手すりのすき間に入っていて自分の力では抜けなかったと母は言った。僕はすぐそちらに戻ると言って搬送された病院の名前を聞いた。以前伯母と一緒に行った県立病院だった。

病院に着くと父は集中治療室にいた。人工呼吸器をつけていたので表情はよくわからなかったが眠っているように見えた。医師は「今日か明日です」と端的に言った。救急車が到着した時にはすでに呼吸がなかったらしい。重篤な感染症だという。母が大動脈解離で入院した時の外科医の言葉を思い出した。あの外科医も感染症がリスクだと言っていた。医師は病状の説明をおえると、容態に変化があったら連絡するので今日は家に戻って構わないと言った。僕は母と弟と三人で実家に戻った。翌日になっても父の様子に変化はなかった。意識はないままだった。集中治療室なのであまり長居はできない。実家に帰って僕は母と弟に「今日か明日ではなかったやん」とつぶやいた。母は「ようなってるんとちゃうか」と言った。そうなのかもしれない。

その夜、母は長年習っている詩吟について語り始めた。弟や僕は母が詩吟をやっていることは聞いていたものの、それ以上のことはほとんど何も知らなかった。母はコンダクターと呼ぶ小型の電子楽器を出してきて、スイッチを入れて片手で弾きはじめた。初めて見る楽器だ。鍵盤のかわりにボタンがいくつもあってこれを押すと異なる高さの音が出る。基準音の高さはスイッチで変えられて、その音の高さを一本とか二本とかいうらしい。母がうたうのを聞いて弟も僕も驚いた。普段話している声から想像できない太く大きく豊かな声が部屋に響き渡っていた。母はかつてドレミファソラシドが正しく歌えなかったはずだが、それとこれとは別物らしい。

母は人に教えることができる免状を持っていて、実際引退した先生に頼まれて会のリーダー的な役割をしていたこともあるという。そういえば母の部屋には縦長の分厚い木の板が壁に掛かっている。そこには流派の名前と雅号が書いてあった。雅号の上には師範とある。本当は昇段とかしたくなかったし免状ももらいたくなかったのだと母は言う。資格があがるたびに支出も増える。しかし教わっている先生の立場上辞退するわけにもいかないのは習い事に共通することだろう。昔は大会に出たり試験を受けたり、そしてお手伝いにも時間をかけたようだ。今は流派からは脱退し、以前からの詩吟仲間数人と近所の公民館に週一回集まってうたっているが、「ほとんど喋ってるだけや」ということらしい。

今は詩吟だけだが、昔は洋裁やらお花やらヨガやらさまざまな稽古ごとに参加していた。今はなき地元の婦人会のつながりで誘われたようだ。そして頼まれるままに会計の仕事をいくつか掛け持ちでしていた。ひとつには父の単身赴任が長かったので、比較的時間の融通がきいたということがある。それと母は頼まれたことはきちんとするので、いったん始めるとほかに代りとなる人がなかなかいないということもあった。国勢調査の調査員をした時には、あなたのように完璧な仕事をする人はいないと言われて、次はより広域の調査をと頼まれたらしいがさすがに断ったという。本当に完璧だったのか人が足りなかっただけなのかわからないが、人様から頼まれたことをおろそかにしないのは母の血筋だ。


翌朝病院から電話がかかってきた。そろそろ来てもらいたいとのことだった。そろそろという言葉からよくはならなかったということがわかった。ベッドに横たわっている父の様子は見た目の変化はなかった。父に声をかけても反応はない。ベッドの横で三人で並んでじっと父の方を見ているしかなかった。椅子に背もたれがないので母がつらそうに見える。背もたれのある椅子を用意してもらって母を座らせた。そのうちモニター画面に表示されている血圧の値が少しずつ下がり始め、医師がやってきてベッドのまわりのカーテンを閉めた。そのまま静かに父は亡くなった。医師はお力になれず申し訳ありませんと言った。父は八十七歳だった。

集中治療室の待合室で手続きを待っていると、母が唐突に「おなかすいたわ。何かこうてきて」と言った。そう言われてみれば空腹であることに気が付いた。弟が売店に行ってサンドイッチとおにぎりと飲み物を買ってきてくれた。母はおいしそうにサンドイッチを食べていた。それにしてもあっけなかった。父が死んだという実感がまったくない。母が「葬式はここがええんとちゃうか」と言ったところは家の近くの生協にパンフレットがあって僕も少し前にそれを見たことがあった。「最近は年寄りの葬式はみんな家族葬やで」と母は言った。祖父が亡くなった時も実家で葬儀をした。そのイメージが母も僕もあったので話は早かった。早速電話番号を調べてそこに電話をかけた。

これは正しい順序ではない。父が伯母より先に逝くのは正しくない順序だ。伯母の遺言書に書かれているはずの遺産の受取人が先に亡くなってしまった。このような場合は法的にどうなるのか真面目に考えたことがなかったことに気が付いた。今から伯母に新しい遺言書を書いてもらうことは不可能だ。そしてそれ以前に目の前の問題があった。急がされている伯母の二回目の医療保護入院の家族同意を誰かにしてもらわないといけない。署名のできる二親等の親族は父のすぐ上の兄と弟が存命だが、二人とも高齢で家を出るのは難しい状態だと聞いている。僕がこれまでの事情を説明して署名してもらわなくてはならない。言えばもちろん協力してくれるだろう。

しかし僕は正直気が進まなかった。ここまできたら自分で何とかする方法をみつけたかった。家族同意が今回で最後になるという保証はどこにもない。毎回誰かにお願いするのは手間もかかるし気も引ける。それにそもそも、兄弟間の人間関係に問題があるからこういうことになっているのだ。遺言書も六人の兄弟の仲が良ければ必要ないものだ。誰が悪いというつもりはないが、扶養義務者でもない人間が扶養義務者に頭をさげて頼むのは違うだろうという思いはある。兄弟が誰も口に出さないのなら自分が最期まで引き受ける。しかしそうは言っても、ではどうするつもりなのかと問われると答えの見当はつかなかった。