亀井神社の読誦塔(亀井野)

亀井野最北部に位置する亀井神社は、明治初年の神仏分離までは不動明王を祀る村持ちの仏堂でした。『新編相模国風土記稿』(1841)には「不動堂 村の鎮護とす 側に疱瘡神祠あり」と記されており、現在も近くに不動川や不動前交差点の名称が残っています。今は倒壊していますが、「疱瘡神鎮座」と刻まれた石碑も残されています。

亀井神社参道

写真右側の階段をのぼると、地蔵菩薩のように飾りつけられた不動明王とその童子たちの石像が目に入ります。この造立年は不明ですが、不動明王の背面には「願主小倉久米右ヱ門」と刻まれています。小倉家は江戸時代から続く亀井野村の旧家のひとつであり、名主をつとめたこともある小倉本家の当主は代々粂右衛門を名乗っていました。

不動明王像(中央)

社殿前左側の経塚と伝えられる場所に、延宝五年(1677)の銘をもつ読誦塔が残っています(写真右)。経典を読んだ回数が刻まれた石碑は市内に十数基ありますが、おそらくこの塔はそのうち最も古いもので、また奉納者が記されていない唯一のものでもあります。銘は次の通りですが、右面下部に「平等」左面下部に「利益」とだけあり、しかも年号が裏面に刻まれているという、この形式の塔としては例外的と言える銘文配置になっています。かつてこの塔は四方から見える位置に立っていたのでしょう。

亀井神社の一字一石経塚

1 角柱剣頭 延宝五(1677)
[正面] 奉看讀大乗妙典一千部
[右面] 平等
[左面] 利益
[背面] 于時延寳五丁巳七月五日

読誦塔の左側には、この経塚について記した嘉永三年(1850)銘の碑があります(写真中央)。正面に隷書体で刻まれた銘文には、この場所は延宝五年に築かれた一字一石の経塚であるが歳月を経て荒れていたので整えたとあります。この碑も奉納者が示されていませんが、文面からはそのことを美徳としているように読み取れます。読誦塔にはかつて基礎石があってそこには奉納者が書かれていたのではないかと思うのですが、仮にそうであったとしても嘉永の頃には失われていたということになります。なお『藤沢市史第1巻』(1970)の記載によれば「塚碑」という言葉が銘文の最初にあったのかもしれませんが、現在碑の右端は欠落しており確認できません。

2 自然型 嘉永三(1850)
[正面]
是古墳者延寳五丁巳秋某姓修而
所築之法華妙典一字一石之經塚
也年歴之舊凮脚雨趾荒蕩土塊而
數斛之經石殆欲暴露故今阜土疊
石以加補理葢徃昔不記行者之姓
氏者功德之根愈深而餘福垂無窮
之謂乎聊勒之以勸渇仰於不朽矣
嘉永三庚戌穐九月

《原文:𬜻(華)⿱雚曰(舊)𭰹(深)𭴿(無)𦖂(聊)》

この嘉永三年の塚碑を造ったのは誰だったのでしょうか。現在亀井神社の宮司は、西俣野の御嶽神社の嶽山宮司が兼務されていますが、『亀井野新田誌-古きをたずねて』(1987)によれば、「江戸末期には唐池の長谷川氏が社僧として努めていました。明治になって長谷川氏は神職となりましたが、この家はやがて絶えてしまいました」とあります。

亀井野の北にある高倉の七ツ木神社には「亀井野行者 長谷川長清」と刻まれた石碑が三基残されており、それぞれ明治十二年(1879)明治二十一年(1888)明治二十八年(1895)の年号が見られます。これらはいずれも御嶽信仰にもとづくものです。そして亀井神社には富士信仰をしめす石碑が三基残っています。修験道の行者であった長谷川長清氏あるいはその先代が不動堂社僧で、この塚碑もその造立によるものなのかもしれません。

ところでこの嘉永三年塔は、『藤沢の文化財第九集』(1965)や『藤沢市史第1巻』(1970)に収録されていますが、延宝五年塔の方はこれらに取り上げられておらず、初出は『藤沢市の石仏』(2003)のようです。嘉永三年塔の銘文は明らかに延宝五年塔を指し示しており、ずっとこの二基は近くにあったと思われるのに、この取り上げられ方の差は不思議な気がします。ここからは想像ですが、延宝五年塔は倒れているなど見つかりにくい状態にあったか、あるいはこの塔は文字の彫りが浅いので銘文に気づかなかったのかもしれません。ごく最近になって、おそらく平成五年の神社改築の時に、土に埋もれていた塔を起こして今の形にしたのではないでしょうか。

この経塚の奥、社殿の左側には行き場を失ったたくさんの古い石塔が集められています。多くは19世紀半ば以降のものですが、ひとつだけ元文五年(1740)の銘がある石柱が残っており、延宝五年塔とともにこの不動堂の長い歴史を証明しています。しかしかつて村持ちだった仏堂の多くがそうであるように、古い記録は残っておらず、経塚の由来を解き明かす手掛かりはありません。