葛原芝地の馬頭観音塔(葛原)

藤沢市北部に位置する葛原は、明治時代に編纂された皇国地誌(残稿)によればその面積の2/3が畑で1/4が林という農村でした。その東部には、大正時代に海軍が作った水道施設である横須賀水道が北西から南東にかけて一直線に通っており、今もその跡をたどることができます。葛原北部の横須賀水道より東の部分は2000年頃までは林が大部分で人家はほとんどありませんでした。その後この周辺は藤沢市により「新産業の森地区」に指定され、産業拠点の形成をめざした開発対象地域になりました。

藤沢市作成の資料に加筆

新産業の森地区のうち、現時点ですでに開発が進んでいるのは北部地区と呼ばれるところで、そのうち第1期整備区域にはすでにいくつかの企業が進出していますが、第2期整備区域の大半は手入れのされていない雑木林のままの状態にあります。この第2期整備区域に接し、綾瀬市との境界から少し藤沢市側に入ったところに、おそらくあまり知られていない2基の馬頭観音塔があります。ここは非常にわかりにくいところで、2005年に開園した民営墓苑の北にある細い行き止まりの道を奥まで入らないとたどりつけません。

この数メートル四方の空地は整えられており、別の機会に訪問したらお供えもされていたので、今も地元の方によって大切にされていることがわかります。2基のうち右側は明治七年(1874)の文字塔で、銘は以下の通りです。漆原姓は葛原村の旧家で、漆原忠左ヱ門の名を刻んだ石塔は葛原を中心にいくつか残っています。それらの銘文の中には造塔時の本人の年齢を刻んだものがあり、そこから計算すると忠左衛門氏は文政十二年(1829)年頃の生まれで、この明治七年塔を造立した当時は46歳前後だったことがわかります。

[右面]明治七戌十一月吉日
[正面]馬頭觀世音
[左面]葛󠄀原村 漆原忠左ヱ門

左側の塔は寛政十一年(1799)のもので馬頭観音像がきれいに残っています。聖観音のような穏やかな表情が特徴的です。この銘は以下の通りです。寛政十一年は己未なので戊未は間違いですが、干支の誤りはしばしばみられるものです。問題は左面の中村と家村で、中村は今も集落名として使われていますが、家村が何を指すのかが不明です。中村の近くに家中庭という現在は交差点の名称として生き残っている集落名がありますが、これと関係があるのかもしれません。

[右面]寛政十一戊未十一月吉日
[正面]〔二臂馬頭観音立像(合掌)〕
[左面]相刕高𫝶郡葛󠄀原 中村 家村

この場所の地名は葛原字芝地ですが、中村も家中庭も葛原中心部の近くで芝地とはいささか距離があります。つい最近まで林の中だったはずのこの行き止まりの場所になぜ馬頭観音塔があるのでしょうか。古い地図を見ると、明治以降昭和三十年ごろまではこのあたりから中村集落に一直線に向かう道があったことがわかります。その後この道は地図から消えてしまうのですが、これらの塔はこの道沿いにあったと考えられます。あるいは綾瀬からこの道に入る入口にあって、道しるべのような役割を果たしていたのかもしれません。現在の位置は車道から離れており人通りもほとんどないので風化を免れているとも言えそうです。

ところで国土地理院の地図には芝池と書かれていますが、これは誤りです。地図に関するお問い合わせフォームからこの誤りを指摘して、受け取りの連絡も来ましたが、さてこの修正がオンライン地図に反映されるまでどのくらい時間がかかるでしょうか。