江の島辺津宮の古碑(江の島)

江の島の辺津宮に「宋国伝来の古碑」と呼ばれる大きな石板があります。一見巨大な石の祠のようですが、古碑は正面奥の石板1枚であり、折れて継ぎ合わされているものです。左右上下や屋根の石はあとから付け加えられた雨除けの覆です。伝承によればこの碑は鎌倉時代のはじめに日本の僧が宋の国から持ち帰ったものですが、実際の由来は今もよくわかっておらず、室町時代に中国様式をまねて日本産の石に彫られた可能性が高いようです。それでも古いものには違いありません。

この碑の上部中央には篆書体で「大日本國江島靈迹建寺之記」と縦書き三行で書かれており、その左右には龍の姿が彫られています。下部には江の島の由来に関する文章が刻まれていたはずですが、すでに江戸時代初期には摩滅で読めなくなっていたようで、文面は不明です。下の図は徳川光圀が編纂した新編鎌倉誌(1685)に描かれている碑の図で、当時は覆いも土台もなく碑がそのまま地面に突き立っている状態でした。なおこの碑の左横に置かれている最近の説明文では碑上部の文字は読めなくなっているとありますが、実際には明かりで照らせば今でもこの文字を読み取ることができます。

そしてこの古碑に取り付けられている覆の左右の石には次にように書かれています。これを見ると覆の由来は明確で、元禄十四年(1701)に嶋岡代一という検校が雨よけの覆と台石を寄進したものです。寄進を受け取ったのは恭順という僧であったこともわかります。ところでこの文字も今は読めなくなっていると書かれている文献がありますが、実物を見ると明かりで照らさずとも読み取れるくらい大きい文字で深く刻まれているのがわかります。

[右内側]當碑文之雨覆幷 臺盤石造立寄進 施主嶋岡検校代一
[左内側]元禄十四辛巳歳十二月吉日 別當法印恭順世

《原文:䨱(覆)》

この古碑は奇物とされ、江戸時代を通してさまざまな文献で紹介されています。しかし覆ができたとされる元禄十四年以降に書かれたものにも、碑は土台がなく地面に突き立っていると記されおり、百四十年後の新編相模國風土記稿(1841)の記述も同様です。覆は江戸時代の記録には見当たらないのです。実物を確認せずに過去の記録をそのまま書き写した文献も多いのかもしれませんが、これだけ碑と一体化している覆の記述が百数十年にわたってまったくないというのもいささか不自然に思われます。

ここで覆の銘にある嶋岡代一という人物は、検校の任官記録である三代関によれば元禄十三年(1700)に検校になっています。この時代の江の島と関係の深い検校といえば、鍼術を盲人の職業とした功績で知られる杉山和一(1610-1694)が著名ですから、嶋岡代一は検校昇進の記念として杉山和一ゆかりの下之宮(現辺津宮)に寄進をしたのかもしれません。嶋岡代一に関するこれ以上の記録はなく、嶋岡代一と杉山和一に直接の接点があったかどうかは不明です。

一方の恭順は、下之宮の別当寺である下之坊の住職だった人物です。岩本院文書と呼ばれる古文書では正保四年(1647)の記録を恭順のものとし、また宝永五年(1708)に亡くなったとの文書も残っているので、恭順は60年間にわたって下之宮を管理していたことになります。なお杉山和一の伝記の中には、恭順が和一の管鍼法発見の恩人とするものもありますが、この話は伝説の域を超えません。たしかに杉山和一は晩年に下之宮の社殿改修や三重塔の寄進をしているので恭順と無縁ではなかったはずですが、和一や代一との直接の関係を示す資料は残っていません。

このように覆の銘文を見る限りその内容に矛盾や不審な点はなく、覆の由来を積極的に疑う理由はなさそうです。碑がいつ造られたかは謎ですが、覆がいつ今の姿になったのかも謎というわけです。なお恭順ならびにその後住の墓碑は今も江の島に残されており、ここにも少なからず謎があるのですが、碑の話からは外れますのでこれについては別項目でとりあげたいと思います。

参考文献
[1] 古田土俊一,大塚紀弘「江の島の中世石碑―「大日本国江島霊迹建寺之記」碑の紹介と分析―」鎌倉 116(2014)
[2] 加藤「旅人が見た江戸時代の藤沢(4)―江ノ島屏風石に関することども-」文書館だより文庫第14号,藤沢市文書館(2008)