西浦霊園の下之坊歴代墓所(江の島)

藤沢市の観光名所、江の島の観光コースは青銅の鳥居をくぐるところからはじまります。商店のたちならぶ仲見世通りをぬけ、江島神社の入口に立つ朱の鳥居で記念写真をとるのが定番です。元気のある人はここからまっすぐ階段をのぼって辺津宮に向かいますが、この階段は少々きついので左側にある有料エスカレーターをつかって時間を節約するのも選択肢のひとつです。江の島は階段だらけの島であり、朱の鳥居から一番奥の岩屋まで一通り歩くと600段以上あるそうです。

朱の鳥居からは、これ以外に右側にものぼり道があります。これは下道と呼ばれる住民道路で、西まわりで奥津宮につながる近道でもありますが、この道に階段はないので住民の方々はバイクでのぼっています。この下道を朱の鳥居から少しのぼった右手に、地域のコミュニティ施設である「江の島市民の家」の建物があります。ここは明治17年から昭和35年まで藤沢市立片瀬小学校江の島分校(当初は龍口学校分校)があったところです。また江戸時代の地図を見ると、このあたりに杉山和一検校が元禄六年(1693)に寄進した三重塔があったはずですが、明治初年の神仏分離の際に破棄されたと考えられています。この江の島市民の家の敷地西端に下記の銘をもつ標石がたてられており、その横が西浦霊園と呼ばれる古くからある墓地の入口になっています。

[正面]贈正五位杉山総檢校墓所
[右面]大正十三年五月十八日建之
[左面]東京 総檢校杉山先生第二百五十年記念會
《原文》𫠦(所)

ここから西浦漁港に降りる急な階段沿いに墓地が広がっており、入口から階段をすこしおりた右側に藤沢市の史跡に指定されている杉山和一検校の墓が見えてきます。傍には説明の看板も建てられています。この一画は、かつて江の島にあった三坊(岩本坊(のちに岩本院)、上之坊、下之坊)のひとつである下之坊の歴代の墓域であり、和一の墓を囲むように右側に12基、奥に4基の墓碑が残されています。ほとんどが江戸時代前半のものです。このころの江の島の状況は岩本院に残されている古文書が貴重な情報を与えてくれますが、下之坊に関するまとまった古文書は残っておらず、その歴史には不明な点が少なくありません。そこでここではこれらの墓碑の銘文から下之坊歴代をたどってみます。

この区画にある墓碑の銘文については、すでに岩本院の末裔である間宮霞軒による江之島記(1939)や藤沢市による文化財調査報告書第六集(1970)に調査記録がありますが、いずれも欠落や誤りがあります。後に見るように岩本院の古文書の記載を補う情報としてこの銘文の正確性は重要なので、ここであらためてこの墓域にあるすべての墓碑の銘文を調査した結果を示しておきます。以下碑番号は、杉山和一の墓碑を1番、右手前から右奥にかけて2番から13番、奥右側から左側にかけて14番から17番としています。

1番 笠塔婆
[正面]元禄七甲戌年 〔梵字サ(聖観音)〕前總検校即明院殿眼叟元清權大僧都 五月十八日
[背面]元禄八乙亥年 施主 杉山安兵衛重昌 三嶌惣撿校安一 五月十八日
[左面]追贈正五位 伊勢國津之産杉山和一寂定之地 大正十三年二月十一日
《原文》𭆪(叟)
参考 燈籠一対
[右竿背面]元禄十三年庚辰 寄進石燈臺二基 五月十八日 川越少將源保明室

2番 無縫塔
[正面]寛永十八辛巳天 〔梵字アバンランカンケン(大日法身真言)〕 十一月吉日 
[正面下部]乃至法界 為長伸菩提 平等利益
3番 無縫塔
[正面]于時𣴎應元年 〔梵字ア〕興巖院殿□慶大法師覚位 壬辰四月十六日
4番 笠塔婆
[正面]于時𣴎應三甲午天 〔梵字キリーク〕月窓道教禅定門霊位 八月廿八日
5番 無縫塔
[正面]元文五庚申天 〔梵字アーンク〕權大僧都法印恭善覚位 三月十有一日
[背面]江之嶌地頭 下之坊三代目
6番 無縫塔
[正面]宝永五戊子天 江之嶋地頭 〔梵字アーンク〕權大僧都法印恭順覚位 五月二十一日 下之坊一代
7番 笠塔婆
[正面]貞享二乙丑天 〔梵字ア〕芳怡妙閑禅定尼㚑位 六月廿四日
《原文》𡰱(尼)
8番 舟型
[正面右側]明誉清月信女 下之院内
[正面中央]〔梵字サク(?) 如意輪観音菩薩半跏思惟像〕
[正面左側]元禄四辛未天閏八月廿九日
9番 無縫塔
[正面]寳永五戊子天 江之嶋地頭 〔梵字アーンク〕權大僧都法印恭快覚位 正月二十五日 下之坊二代
10番 笠塔婆
[正面]享保五庚子載 〔梵字ア〕覚樹院感舜堯應居士霊位 十月二十一日
[右面]下之坊恭善舎矛時房
《原文》矛(ママ)
11番 舟型
[正面右側]松岡利貞信女霊位
[正面中央]〔梵字キリーク(?) 聖観音菩薩立像〕
[正面左側]享保十六辛亥十一月廿日
12番 角柱尖頭
[正面]〔梵字ア〕光浄院照岸明摂大姉 林香涼月童子 不生位
[右面]寛保三癸亥天六月初四日
[左面]寛保三癸亥天五月初二日
13番 角柱弧頭
[正面]元禄十二己夘天 〔梵字ア〕廣海浄慱居士 八月七日

14番 笠塔婆
[正面]于時慶安元年 〔梵字ア〕法雲院妙喬禅定尼霊位 戊子四月廿三日
15番 舟型
[正面右側]恵空□子霊位
[正面中央]〔梵字ア 地蔵菩薩立像(錫杖・宝珠)〕
[正面左側]元禄十四辛巳天十一月廿四日
16番 笠塔婆
[正面]元禄四辛未年 〔梵字アーンク〕即到院華見妙春霊位 正月三十日
17番 角柱
[正面]明治十五壬午年 〔丸に抱き沢瀉紋〕北條タツ靈璽 七月廿七日
[右面]明治二十二年 北條寛光靈璽 七月二十七日

なお、この墓域の昔の写真を見ると、かつて14番の右隣にもうひとつ大きな墓碑があったことがわかります。湯淺との銘があったようです。しかしこの墓碑は既存文献には見えず、また比較的最近(2000年頃?)に移設されたようで今はありません。

現在残されている17基のうち、僧籍者の墓碑である無縫塔は5基あります。このうち一番古い年号をもつものは2番で寛永十八年(1641)とあります。風化で読みづらいのですが「為長伸菩提」と刻まれており、この長伸という人物は、かつて下之宮に存在した寛永十四年(1637)の鐘の銘文末にあらわれる「下宮別當職権大僧都法印長伸」と同一人物であると考えられます。この鐘は明治初年の神仏分離で失われ現存しておらず、銘文だけが記録に残っています。下之坊は遅くとも16世紀はじめには存在していましたが、長伸は現在たどりうる最古の下之坊住職です。

次に古いものは3番で承応元年(1652)とあります。院殿号が刻まれているので相応の地位がある人物のはずで、何らかの記録が残っている可能性が高いと思うのですが、僧名が一部読み取れないこともあり、今のところこの人物を特定することができません。江之島記はこの僧名を「得慶」、藤沢市文化財調査報告書第六集では「神慶」と読んでいますが、後に述べるように岩本院文書によればこの人物は「伸慶」という僧名であった可能性があります。以下藤沢市教育委員会による「江の島岩本院の近世古文書」(2003)を岩本院文書として引用します。

6番の恭順は、以前紹介した辺津宮の古碑(こちら)の覆の銘に登場した人物で、この覆には元禄十四年(1701)とありました。恭順に関する最も古い記録は正保四年(1647)に遡ります[岩本院文書22, 213]。ただしこの本文中に恭順と書かれているわけではなく、後の時代に作られた古文書目録の中でこの記録が恭順と示されていることに留意する必要があります[同224, 366]。一方恭順が亡くなったのは宝永五年(1708)との記録があり[同141, 142]、これは墓碑に見える没年と一致しています。恭順の墓碑には「下之坊一代」と刻まれており、先住とは何らかの不連続があることがうかがわれます。

恭順が下之坊住職であったと考えられる60年間は、いわゆる江の島本末論争の時期であり、岩本院が上之坊と下之坊を末寺としてその支配下に組み込んでいく過程でもありました。恭順はこの時代、岩本院の支配に抵抗した下之坊側の中心人物であったことになります。岩本院と下之坊は何度も訴訟で争っているものの、すべて岩本院の勝訴に終わっており、恭順が亡くなるころには岩本院の支配がゆるぎないものになっていました。恭順の墓碑に「江之嶋地頭」と刻まれているのは、それでもなお下之坊のもつ独立意識をあらわしているように感じられます。

この論争のひとつに、宝永元年(1704)に岩本院が下之坊を訴えた事件があります。岩本院はこの訴状の中で、下之坊が幕府の免許なく「下之院」との院号を札守に書いていると主張しています[同79]。翌年の評決で下之坊は敗訴し、以後下之院とは申しませんとの一札を入れさせられていますが[同80, 81]、一方でこの訴訟関連文書以外で下之坊が下之院と名乗っている記録は見当たりません。唯一下之院の名称が見られるのが墓碑で、既存文献では正しく読み取れていないのですが、8番の元禄四年(1691)の墓碑にはよく見ると「下之院内」と刻まれています。この女性がどのような人物であったのかは不明です。

問題は恭順の次の住職です。岩本院文書によれば、宝永五年に恭順が亡くなると岩本院の指名により、当時まだ幼少だった小太郎という人物が後住と決まり[同144, 145]、小太郎はのちに恭善との僧名で恭順の後を継ぎます。しかしながら5番の恭善の墓碑には下之坊三代目と刻まれており二代目ではありません。一方9番の墓碑に恭快という僧名が見られ、ここに下之坊二代とあります。そしてそこには宝永五年正月とあり、これは恭順が亡くなる宝永五年五月のわずか四か月前です。つまり恭順の後住になるはずであった恭快が恭順より先に亡くなり、新しい後住が決まる前に恭順自身も亡くなってしまったのだと推測されます。

この幻の二代目の恭快という名は岩本院文書にはあらわれません。一方で専順という僧が宝永二年(1705)と三年(1706)の記録に見え[同86, 121]、前者には下之坊名代とあります。この人物は恭善の兄であったようで、享保三年(1718)に岩本院が記した文書の中に「下之坊の兄専順は住職にならずして亡くなったので何とぞ法印号をいただきたい」とあり[同193]、実際恭善とあわせて法印号を許されています。恭快の墓碑には恭順や恭善とおなじく権大僧都法印と刻まれており、これらの事実から恭快は専順と同一人物だと考えられます。

恭善には弟もいたようで、10番の墓碑には「下之坊恭善舎弟時房」と刻まれています。恭善は正徳二年(1712)に十四歳だったという記録があり[同224]、これによれば恭順が死去した時に恭善はわずか十歳であったことになります。墓碑によれば恭善が亡くなったのは元文五年(1740)で享年42歳、その弟が亡くなったのはその20年も前の享保五年(1720)です。恭善の墓碑の「江之嶌地頭下之坊三代目」という文字は塔の裏側に記されており、後刻と思われます。同様に弟の墓碑の「下之坊恭善舎弟時房」も後刻かもしれません。

恭善が亡くなって三年後の寛保三年(1743)年の女性と子供の墓碑(12番)が、この墓域にある江戸時代最後の墓碑になります。この女性がどのような人物だったかはわかりません。それ以降は明治時代のものが一基だけ残っており(17番)、それは140年後の下之坊最後の住職夫妻の墓碑です。明治初年の神仏分離により別当寺は廃止となり、下之坊住職北條主殿は還俗、北條寛光と改名し神職となりました。その後のことはあまり知られていませんが、下之坊の土地は人手に渡り、北條家も絶えたとのことで、現在下之坊をしのぶことができるものは何も残っていません。

最後に伸慶について。岩本院文書の嘉永三年(1850)の記録に、延宝三年(1675)に下之坊伸慶が仁和寺の直末となることを願い出たとあります[同297]。しかしこれは恭順の誤りであり、実際そのことがわかる恭順自身による文書も残っています[同79]。伸慶という名はこの文書にしかあらわず、実在する人物かどうかもわかりません。ここからは推測ですが、この筆者は間違って恭順の先住の名を書いたのではないでしょうか。もしそうだとすれば3番の墓碑に刻まれた僧名は伸慶ということになり、さらに推測すると、恭順のものとされる正保四年の記録はまだ伸慶の時代であるので、こちらは実は伸慶によるものなのかもしれません。しかしこれらは想像の域を超えず、根拠は希薄といわざるを得ません。

これらをまとめると、下之坊歴代墓域にある5基の無縫塔の人物はおそらく以下のようになります。恭順と恭善についてはここにあげた以外にも岩本院文書に記録がありますが、その他の3人についてはここにあげたものが現在知らている記録のすべてということになります。恭善以降の下之坊住職の墓がどこにあるかは今もわかっていません。

長伸寛永十四年閏三月(梵鐘銘)寛永十八年十一月没(墓碑)下宮別当職
伸慶?承応元年四月没(墓碑)文献に見えず
恭順正保四年?, 延宝三年(岩本院文書)元禄十四年(古碑)
宝永五年五月没(墓碑、岩本院文書)
本末論争時代
恭快=専順宝永二年, 三年(岩本院文書)宝永五年正月没(墓碑)住職にはならず死去
恭善元禄十二年頃生(岩本院文書)元文五年三月没(墓碑)幼名小太郎